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イラストレーター松屋正蔵のコラム『熱狂バイク クロニクル』レース全盛期のこぼれ話

イラストレーター松屋正蔵が描く「熱狂バイク」Masakura Matsuya presentsクロニクル。

リスクを怖れない、ガードナーのチェレンジ精神

時は83~84年。当時の僕は全日本ロードレースに出会った頃でした。モリワキレーシングを追ったテレビ番組が、さまざまな局で放送されていました。 モリワキの白地に黄、水色、青のカラーリングのカッコ良さは当時憧れの的でした。

全日本ロードレースを知ると、次は世界GPにもその興味は広がりました。各国の国内選手権の上位選手が集まる、バイクレースのオリンピックと呼べるのが世界GPでした。既に77年には片山敬済さんがGP350クラスで世界チャンピオンに輝いていましたが、日本人チャンピオン誕生の喜びをまだライブでは知りませんでしたから、ぜひその瞬間を観てみたい! という気持ちで一杯でした。

当時、日本のトップライダーは多く、福田照男さんや平忠彦さん、八代俊二さんがその代表選手。それでもすぐに最高峰クラスで世界チャンピオンに届くかどうかは半信半疑状態でした……。

ですが、そこにモリワキレーシングの森脇社長がオーストラリアで見初めたワイン・ガードナーさんがいました。 モリワキのマシンが用意され、売り出し中のガードナーさんは、イギリス国内選手権との掛け持ちで、積極的に日本のレースにも参戦していました。かなり忙しかったと思います。

鈴鹿8耐にも参戦するガードナーさんは日本のファンに注目され、ホンダの関係者らの目にも止まったのです。まずはホンダブリテンから世界GPに参戦をスタート。そしてトラウマにもなるほどの事故に直面しながらも試練を乗り切り、86年にはとうとうHRC入り。時の人であったスペンサーさんのチームメイトとなったのでした。

当時の日本のロードレースファンからすると、ガードナーさんを応援する事で、まずは日本人選手の代わりにガードナーさんに世界チャンピオンを獲ってもらおう! と思っていたのです。 日本代表的な存在となったガードナーさんの豪快な走りは、パワースライドに表れていました。

ガードナーさん自身、「曲がり方が足らなくてもアクセルのワイドオープンでリアを滑らせば向きは変えられる」と言っていました。日本に近い存在であったガードナーさんですから、こういった逸話がいくつも残っていました。

その中でも面白かったのが、「もし目の前に千切れた高圧電線が垂れ下がっていたらどうする? 僕は迷わずその高圧電線を握ってみるよ! だって何も起こらないかも知れないじゃないか」というものです。ガードナーさんの”上手くいくイメージ”を象徴するようなエピソードだと思います。

そしてさらに面白い話があります。当時のガードナーさんは高速コーナーが苦手で、とにかく怖かったそうです。何だか人間的な部分を感じてホッとします。で、その高速コーナーの怖さを乗り越えたエピソードがあるのです。

鈴鹿サーキットの高速コーナーであるスプーンで、派手に転倒したのです。幸い大きな怪我には至らずに済んだのですが、ガードナーさんはこの転倒により、それまで感じていた高速コーナーでの苦手意識が瞬間的に解消されたそうなのです。

目の前の高圧電線に「とりあえずは触りに行く!」というガードナーさんの、「とりあえずやってみる」というチャレンジャー的な考え方が感じられて、「面白い選手だなぁ、モリワキ出身だし!」と、日本でも大人気となったライダーでした。

86年の開幕戦だったスペインで、世界GP初優勝を飾るのですが、その際に感動を呼んだ話がありました。ピットに戻ったガードナーさんは、嬉しさのあまりNSR500に跨ったまま号泣したのです。そんな人間味に溢れているあたりも、ガードナーさんが日本人に好かれていた要因だとも思います。

それでは今月はこの辺で。ワインガードナーファンクラブ会員番号1030番の松屋正蔵でした。

松屋正蔵 
1961年・神奈川生まれ。80年に『釣りキチ三平』の作者・矢口高雄先生の矢口プロに入社。89年にチーフアシスタントを務めた後退社、独立。バイク雑誌、ロードレース専門誌、F1専門誌を中心に活動。現在、Twitteの@MATSUYA58102306にてオリジナルイラストなどの受注する

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