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パドックから見たコンチネンタルサーカス【ノリックと生姜焼き】

’81年から国内外の二輪、四輪レースを撮影し続けている折原弘之が、パドックで実際に見て、聞いたインサイドストーリーをご紹介。今回は、世界GPのルーキーだった、阿部典史(ノリック)との想い出

【阿部典史】’75年、東京都出身。15歳で渡米。ダートトラックやモトクロスで鍛え、全日本参戦1年目の’93年に500ccクラス王者。’95 年、ヤマハから世界GP500ccクラスに参戦。MotoGPも含めて10シーズンを戦った。その後SBK、全日本と活躍の場を移したが、’07年、一般道での事故により、32歳の若さで急逝した。

ノリックと生姜焼き

「オリ、今度イキのいいライダーがデビューするからさ、楽しみにしててよ」 

アメリカでレース取材をしているテッペイさんが、いつもの勢いで話してきた。その時は「そんな日本人ライダーがアメリカにいたんだ」程度に思っていた。それがまさか、阿部典史選手だとは思いもしなかった。ノリックとは秋ヶ瀬サーキットで何度か顔を合わせていたからだ。 

そのノリックが93年の全日本、最後の500㏄クラスにエントリーし、最年少の18歳で王座をさらっていった。ダートラ仕込みのリーンアウト気味にマシンを押さえ込む独特のライディングは、ミック・ドゥーハンを彷彿させた。翌94年の日本GPに、彼はワイルドカードで出場した。前年度全日本チャンピオンだから頑張って欲しいとは思ったが、まさかあれほどの活躍を見せるとは、誰も思わなかったのではないだろうか。 

予選は7番手だったノリックだが、スタートして1周してくると、4番手まで順位を上げていた。そしてそこから、ミック、ケビンと三つ巴のトップ争いを繰り広げる。GPデビュー戦の19歳が、ケビンやミックのインを突いて抜き去るシーンは衝撃的だった。結果的にはラスト3周を残して、転倒リタイアに終わるのだが、見る者に鮮烈な印象を与えた。その証拠にバレンティーノ・ロッシが、ノリックに憧れて〝R OSSIFUMI〞と名乗ったほどだ。僕にとっては、秋ヶ瀬サーキットで遊んでいたアイツが、こんなライダーになったのかとワクワクさせられたのを覚えている。 

当然のように、翌年ノリックは世界GPにチャレンジしてきた。その95年のドニントンパークで、タイレルとGP500を対決させる企画を、僕が契約していた『AS+F(アズエフ)』誌が企画。ヤマハ(当時のタイレルはヤマハエンジン)に話したところ実現。片山右京選手とノリックがタイレルF1とYZR500で対決することとなった。舞台はWGPイギリスラウンドが行われる、木曜日のドニントンパークだった。

企画自体は大成功し、僕らも重責から解放された。こんな大イベントの後には、打ち上げは付きもの。企画者であるライターと僕は、パドックにいる日本人ライダーを連れて和食店に行くことにした。 

岡田選手、原田選手、青木選手といったレギュラーメンバーに加え、伊藤選手や坂田選手たちが加わっていたと記憶している。そして阿部選手を誘おうという話になった。話の流れで、僕が誘いに行くことになったのだが、そこで意外な話が聞けた。 

それまで、ノリックと話す機会が少なかった僕は、緊張気味に彼のモーターホームをノックした。木曜日だったので時間があったのか、すぐにノリックが顔を出した。

「珍しいですね、どうしたんです?」

「実はみんなで和食を食べに行こうと思って、一緒にどうかな」 と話すと。

「あーすみません、僕は大勢の席が苦手なんですよ」 

と言いにくそうに答えた。

「そうなんだ、じゃあ仕方ないね」するとノリックは言った。

「折原さんですよね。秋ヶ瀬サーキットの頃から、知ってるには知ってるけど、あんまり接点ないですね」 

と話しかけてきた。僕は少々戸惑いながら言った。

「知ってたんだ。興味が無いわけじゃないけど、タイミングが合わなかったね。ちょうど良い機会だから話聞かせてくれる?」

「いいですよ、ちょうど暇だったし」 そう言ってモーターホームの前に椅子を出してくれた。前レースの事も覚えていないというノリックに、94年の日本GPことを聞いてみた。

「今でも鮮明に覚えてます。あのレースは、僕にとって94年の開幕戦であり最終戦だったんです」 94年はワイルドカードで出場できるのは日本GPだけだった。

「悔いが残らないようになんて当たり前で、出し切ることしか考えてなかったかな。だって次のレースなんて考えなくていいじゃないですか。これに勝てば一生の宝物になりますよね。だから転倒なんて怖くなかったし、考えてもいませんでした」

「レース中ミックやケビンを抜いた時って、どんな感じだったの?」

よく覚えてないです。でも、イケる、俺の方が速いと感じたし、抜くのに躊躇はなかったです。結局タイヤの使い方なのかな、後半はズルズルで最後は転んじゃいましたけど」

こんな内容だったと記憶している。その後も話に花が咲き、長居しているとキッチンから生姜焼きの匂いがしてきた。

「ごめん、晩飯の時間だね」

と言って別れを告げ、みんなの元へ向かう途中、今晩のメニューが確定したのは言うまでもない。

その後も、ノリックとの交流は続いた。96年の日本GP優勝には涙が溢れた。不調な時も好調な時も、会えば言葉を交わした。そんな中、突然の悲報が届いた。その事実を受け入れられないまま、葬儀に参列した。お焼香をしても、目の前で原田選手とノリックの父親が抱き合って泣き崩れるのを見てもピンとこなかった。それでも何年かすると、悲しみは癒えていくものだ。ただ、いまだに生姜焼きを注文するたびに、ノリックと初めて長話したことを思い出し、センチメンタルな気持ちになる。

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