1. HOME
  2. ロードレース
  3. 現代の欧州出身チャンピオンの先駆けとなったアレックス・クリビーレ【松屋正蔵が描く、熱狂バイククロニクル】

現代の欧州出身チャンピオンの先駆けとなったアレックス・クリビーレ【松屋正蔵が描く、熱狂バイククロニクル】

アレックス・クリビーレという世界チャンピオンがいました。スペイン出身の、俳優のような顔立ちのハンサムな選手でした。騙されたと思って一度ネットで検索してみてください。まるでハリウッド俳優のような凄いハンサムボーイが出てきますから!

クリビーレさんは’99年の最高峰クラスGP500の世界チャンピオンですが、その前にGP125でもチャンピオンを獲った、正真正銘の才能に溢れたライダーでした。そう、天は二物を与えたのです。

クリビーレさんの戦歴は長く、’87年のGP80から世界GPにフル参戦しています。そして、’89年にGP125チャンピオンを獲得しました。小排気量クラスのスペシャリストだったわけですね。

その後、GP250を2シーズン経験しますが、ここでは特に目立った成績を残せないまま時間は過ぎて行きました。

しかし、’92年にサプライズが起きました!なんとGP500クラスへのステップアップが決まったのです。しかもマシンは夢のワークス仕様のNSR500となりました。

成績が振るわなかったのに大抜擢された理由としては、GP250チャンピオンだった監督のアルフォンソ・シト・ポンスさんが、同郷の後輩であるクリビーレさんに白羽の矢を立てたからだと思われます。この起用は、後のクリビーレさんの選手としての運命をも感じさせる展開へと結びついていくのでした。

綺麗でオーソドックスなフォームで、リアステアを使いシッカリ旋回させ、NSR500の加速力を十分使い切りその速さを作り出していました
綺麗でオーソドックスなフォームで、リアステアを使いシッカリ旋回させ、NSR500の加速力を十分使い切りその速さを作り出していました

’92年から2年間、ポンスさんのチームで走り、’94年にはついにHRCワークスライダーにまで上り詰めました。それまでの2年間は、じっくりと500ccマシンを理解する時間になっていたようです。

この時期のホンダのエースライダーはオーストラリア出身のミック・ドゥーハンさんでした。クリビーレさんは岡田忠之さんと同様、チャンピオンのチームメイトとして、ドゥーハンさんと共に戦いました。そして岡田さんと共に、V5チャンピオンのドゥーハンさんを何度か破って見せる活躍を見せたのでした!

ドゥーハンさんは’92年シーズン中のオランダGPで右足に大怪我を負い、それまで得意としていた、レース開始直後からいきなりフルスパートで後続マシンを突き放すという、激しくてリスクの高いレース運びを変えています。そして’94〜’98年までの5年間、見事に連続でチャンピオンを獲得したのです。

レース展開を変えたドゥーハンさんは、その日の自分の調子を見計らいながら、ラストスパートに入るまでは余裕を持ったペースで走りました。そのため、レース中はトップ争いに加われる選手が何人も現れ、一見、激しいレースに見え、面白くも感じたものでした。

そんなレース展開を戦術としていたドゥーハンさんの走りを間近でじっくりと観察、研究ができたクリビーレさんは、同時に自らの勝ちパターンも作っていきました。そして、とうとう’99年にスペイン人ライダーとしては初となるGP500チャンピオンに輝いたのでした。

このシーズン、スペインGPの予選でドゥーハンさんは再び大怪我を負い、そのまま引退してしまったとは言え、クリビーレさんはその大きなチャンスを逃すことなく、見事に世界チャンピオンを獲ったのですから、その実績は後世に伝えられていくわけです。

このクリビーレさんのチャンピオン獲得には、GPの歴史から見ても大きな意味がありました。それは、それまで続いていたアメリカン&オージーライダーの最高峰クラス制覇をストップしたことです。これは現在のMotoGPへと繋がる歴史の転換点となったのでした!

それ以前は’80年代から、ダートトラック出身のアメリカンライダー達が、入れ替わり立ち替わりチャンピオンを獲り続けていました。’81年のマルコ・ルッキネリさん、’82年のフランコ・ウンチーニさんという例外があるものの、’83年のフレディ・スペンサーさん以降、17年間に渡りアメリカン&オージーのチャンピオンが続いていたのです。

GP125時代のクリビーレさんは、黒いマシンのジャノーラ(#2)さんと同様、深く伏せてカウルの中にスッポリと入るフォームが特徴でした
GP125時代のクリビーレさんは、黒いマシンのジャノーラ(#2)さんと同様、深く伏せてカウルの中にスッポリと入るフォームが特徴でした

しかし、’99年のクリビーレさんのチャンピオン獲得から、世界GPは変わり始めたのです。’01年のバレンティーノ・ロッシさんから、ヨーロピアンライダーも続々とチャンピオンを獲るようになりました。ロッシさんのV7やマルケス選手によるV6など、ドゥーハンさんのV5を破る大記録も生まれました。昨今はヨーロピアンライダーが連続してチャンピオンを獲得していますが、クリビーレさんがその先鞭を付けたと言えるわけです。

ヨーロッパのレースファンからすれば、そもそもバイクの世界選手権は欧州発祥という自負がありますから、クリビーレさんのチャンピオン獲得がどれだけ深い意味があったか、想像に難くありません。

ヨーロピアンライダーが速くなったきっかけは何か?と考えますと、ヨーロッパにおいてもダートトラックレースが盛んになった事が原因の一つではないかと推察しています。

最後にそんなクリビーレさんのライディングに関する考察をしたいと思います。

クリビーレさんはリアステア的なライディングフォームで、腰を引き気味で外足は綺麗にマシンに沿わせています。アウト側ステップにはブーツの土踏まずを載せてつま先を外側に開くという、GP500のトップライダーに多いフォームで身体をホールドしていました。

頭はセンターにキープした感じですが、時々少しイン側に傾く時もありました。「曲がれ!」という気持ちが身体に表れている感じです。頭の位置は非常に低く、小排気量クラスからのステップアップ組の特徴と一致していました。パワーが無いクラスではカウルから身体がはみ出す事でスピードを落としてしまう可能性があるため、きっちりとカウルからはみ出さないように伏せるのが癖になっているのです。

それでも500ccマシンでキャリアを積み重ねるうちに、頭の位置が高くなっていく傾向にありました。そして’99年シーズンには、もはや伏せ方が強いという印象は無くなっていました。

そうして速さを身につけたクリビーレさんは、その後のロッシさんやロレンソさん、マルケス選手らヨーロピアンライダーの先陣を切り、アメリカ、オーストラリア出身のライダーに奪われていた世界GPの覇権を、ヨーロッパに取り戻していったのでした。

現在のMotoGPはバニャイア選手、マルティン選手、エスパロガロ選手らヨーロピアンがリードしています。その先駆けとなったのが、クリビーレさんなのです。雄大なドラマを感じますね!レースって良いなぁ!

関連記事