【熱狂バイククロニクル|加藤大治郎】MotoGP王者も期待された天才的テクニック
今回取り上げますのは加藤大治郎さんです。大治郎さんの固定ゼッケンであった#74は、ご自身の誕生日である7月4日にちなんでいたようです。
「大ちゃん」こと加藤大治郎さんの登場は、日本ロードレース界にとって、大きな期待と影響力をもたらした重大事でありました。そのままモトGPを走っていたならば、また違った歴史が観られたであろうと信じています。それくらい日本のレース界にとって、大治郎さんが世界で走るという事には大きな意味があったのです。
’89年から地上波やBSで、世界GPの全戦放送が始まりました。今回の考察で取り上げます’03年の開幕戦・鈴鹿の放送はBSと、現在に繋がるCSのG+、そして地上波の3局となっていました。なんと豪快な!
とは言え、当時収録したBS版、CS版のビデオを見返すと、衛星放送ながら画質は悪く、色は白く飛び、詳細がよく見えない状態です。いかに現在の映像がきれいなのかと、古いビデオを見て改めて思います。
そしてあの忌まわしい出来事は、’03年4月6日のこのレースで起きてしまいました。日本国内だけではなく、世界GPにおいて大きなダメージを与えたレースだったのです。その影響は現在、いや、今シーズンにも続いているのです。
大治郎さんは、’02年の開幕からNSR500に乗り、後半戦から最新のモトGPマシン・RC211Vに乗り換えていました。’03年は開幕からRC211Vに乗るという事で、最高峰クラスで本格的にチャンピオンを狙うシーズンと期待され、日本のレースファンにとっては、大きな楽しみの始まりとなる開幕戦でした。
それとこのシーズンは、モトGP周辺で色々と変更がありました。
まず、鈴鹿サーキットのレイアウトが、安全性向上を狙って改修されていたのです。中でも一番目立ったのが130Rでした。アウト側セーフティゾーンを拡げるため、85R+340Rの複合コーナーとなり、コーナー自体もイン側、手前に移動。130Rからシケインまでのコース幅が非常に広くなり、ライン的にも自由度が増しました。その結果、シケインまでスピードが乗る設計へと変わっていたのです。また、シケインも二輪専用になっていました。
それらのコース変更が行われた後、初めて開催されたモトGPが、’03年開幕戦だったのです。
大治郎さんは予選を11位で終え3列目からのスタートとなりました。金〜土曜日の天候が優れなかった事が、順位が低迷した理由と言われています。大治郎さんはレインコンディションがあまり好きではありませんでしたから。
決勝レースでは、スタートから1コーナーに突入していく中で中団グループに飲まれてしまっていました。そしてオープニングラップは6位となり、トップグループのカピロッシさん、ロッシさん、ビアッジさんらに続き、2秒ほど遅れたセカンドグループに位置していました。
ちなみに、この新レイアウトの鈴鹿のレースから、現在モトGPの中心的存在となっているドゥカティチームが参戦を開始していました!SBKチャンピオンのトロイ・ベイリスさん、そしてロリス・カピロッシさんが、最初のワークスライダーでした。
レースはトップ3が逃げ、大治郎さんがいるセカンドグループとは、すでに距離が離れつつありました。大治郎さんは4位のベイリスさんを、宇川さんと争いながら追っていたのです。トップ3に追い付くために少し焦りもあり、かなり無理をしていたでしょう。
そして運命の3ラップ目に入ります。4位ベイリスさんを追いながら、130Rの立ち上がり加速時に、大治郎さんのマシンは大きく左右に振られ、RC211Vはコントロールを失ってしまいました。そして大治郎さんはシケイン入り口アウト側のスポンジバリアにマシンと共に頭から突っ込んでしまったのです……。
大治郎さんはコース上に投げ出されましたが、マーシャルの素早い対応によって、メディカルルームに運ばれました。救命措置が施され、ヘリコプターで病院まで搬送されたのです。TVを観ている我々はパニック状態となり、その後はレースどころではありませんでした。
そして約2週間の治療の甲斐もなく、大治郎さんは旅立たれてしまったのでした。その長い長い2週間は、日本中の、さらには世界中のレースファンが、彼の無事と復帰を願う祈りの時間でもありました。僕も心の底から願っていました。
130R後半が広がったため、前年までより進入と立ち上がりのスピードが速くなった事と、130Rからシケインまでの距離が若干短くなったことで、減速ポイントが手前になってしまったのが、クラッシュの原因に思えました。
大治郎さんの喪失は日本中の、そして世界中のファンにとって、非常に大きなショックでした。その証拠に現在、世界中にいくつも彼のモニュメントが建てられてもいます。僕個人としては、東京・青山にあるホンダ本社で行われた大治郎さんを送る会に赴き、祭壇に花を供え、手を合わせました。僕が身内や仕事関係の知り合いでない方の送る会に参列したのは、今も大治郎さんだけです。
もしその後も大治郎さんが走っていたならば、ロッシさんの独壇場的なモトGPとはならず、「大治郎さんか、ロッシさんか!」という激しいレースが展開されていたことでしょう。レースの世界に「たられば」は無いですが、ついそう考えてしまうのです。
それでは、大治郎さんのライディングを考察してみます。
それはそれはきれいなライディングフォームでした。まったく無理を感じさせない、マシンを邪魔しない効率の良い走らせ方をしていました。頭はいつもセンターに保ち、アゴを強く引いていました。全日本時代には若干前乗りの印象がありましたが、世界GPに出てからは外足がきれいにマシンの側面に沿っていました。ただ、世界GPではマシンのタンク形状自体が変わった(短くした)のかな?と思ったりもしました。
前乗りかリア乗りかは、どちらの方がライダーにとって乗りやすく、バランスを取りやすいのかで決まりますから、大治郎さんの場合は世界に行ってライディングを変えたようには思えないのです。
そう考える理由は、外足ステップへの足の載せ方にあります。大治郎さんは土踏まずをステップに乗せて体重を外足に預けるのではなく、ステップにはブーツの底が触れている程度に見えるのです。つま先も下を向いていました。パワースライドを得意としたトップライダーのマシンコントロール法とは、違う乗り方をしていたように思えました。
現在、全日本のトップライダーであるヤマハの中須賀選手がやり始めた「外足外し」は、コーナー進入の初期旋回時に外側ステップから足を浮かし、過重を抜く事でリアタイヤを振り出し、素早い向き変えを実現しているようです。中須賀選手はマシンの向き変えをしやいのでそうしているのですが、大治郎さんはこのテクニックに’00年頃に気付き、実践していたのではないのか?と思うのです。ですから大治郎さんの「コーナーへのアプローチスピードの速さ」「瞬間的に向き変えをする上手さ」「コーナリングスピードと立ち上がりスピードの速さ」には、この外足の置き方が関係しているのだろうと推察するのです。この三段論法で速さを手に入れた典型的なライダーは、何と言ってもフレディ・スペンサーさんとケビン・シュワンツさんでした。ただ大治郎さんとは、外足の使い方に違いがあったのです。
それともう一つ、大治郎さんはスパートをする時と、そうでない時ではコーナー進入時に違いがありました。通常の減速はマシンが直立の時に行います。ですがスパート時には若干マシンを寝かせた状態から減速、初期旋回、コーナリングとなっていました。これは、減速時からなるべくタイヤのエッジ側に接地点を移しておきたいからなのかな?と思うのです。マシンに減速G(縦G)ではなく、コーナリングGを早いポイントから掛けたかったのではないでしょうか。これも世界のトップライダーに共通するところであると指摘しておきます。
大治郎さんは自分流のやり方で、世界のトップライダー達と共通するライディングをしていたのだろうと思うのです。だからこそ彼のレースをもっと観たかった!大治郎さんならば最高峰クラスでチャンピオンを獲れたと、僕は信じているのです。それだけ凄かったのです!