【松屋正蔵が描く、熱狂バイククロニクル】1985年の鈴鹿8時間耐久ロードレース
今年の鈴鹿8耐を見た後、僕にとってこのレースとは何であるのかを考え、思い出してみました。強く残っている思い出と言えば、’85年になります。この年は、2年前に世界GPを引退したV3チャンピオンのケニー・ロバーツさんが参戦するという、もの凄い展開になっていたのです。ケニーさんの鈴鹿8耐参戦は日本中のレースファンに知れ渡り、皆がワクワクドキドキしながら、レースが始まるのを楽しみにしていました。そのケニーさんに対抗するのが、モリワキレーシング出身で、日本のレースファンにも馴染み深いワイン・ガードナーさんだったのです。すでに引退している世界チャンピオンと、現役バリバリの世界GPライダー。どちらが速いのかが、僕個人として一番観てみたい、知りたい事でした。
ケニーさんが走るチームは、ヤマハにとって国内レース初のスポンサーで、男性用化粧品の『テック21』という商品が冠となったチームでした。チームカラーがパステル調の水色か紫色に見える、これまでのレース業界の常識とはかけ離れたカラーリングで、化粧品メーカーのイメージ通り、お洒落な雰囲気を発していました。ところが、パステルカラーのマシンと革ツナギを最初に見た際のケニーさんは、あまり乗り気ではなかったようです。周囲の関係者達には緊張感が走ったそうですが、ケニーさんは用意されたマシン、革ツナギなどを使って走り出しました。
多くのワークスやコンストラクターが参戦したこの年でしたが、残念だったのは生放送でのTV中継がありませんでした。予選の模様は、レース後に発売されるビデオソフトか、TVのダイジェストを観る以外、知る方法はありませんでした。そしてその予選で、なんと現役GPライダーのガードナーさんより、引退して2年が経っていたケニーさんの方が速かったのです!ケニーさんは唯一の2分20秒を切る2分19秒956でポールポジションを奪取しました。2位のガードナーさんは2分20秒799。3位はモリワキレーシングの八代さんで、2分22秒115となっていました。ケニーさんとガードナーさんとは、実に0・8秒もの差があったのです。ガードナーさんは熟知した鈴鹿で、マシンは乗り慣れたRVF750。対するケニーさんは慣れない4ストロークのFZR750で、あまり走ったことのない鈴鹿を走っての結果ですから、ガードナーさんは立つ瀬が無かったのではないでしょうか。
とは言え、ガードナーさんは2年後の’87年にGP500クラスでチャンピオンを獲っているのです。今回は、ケニーさんvsガードナーさんとして、世界GPライダー同士の戦いを語ってみたいと思います。ポールを獲得したケニーさんは、スタートライダーとして午前11時半、慣れないル・マン式スタートに臨んでいきました。しかし始動に失敗してしまいます。エンジンに火が入らないのです。マシンを支えていた第2ライダーである平さんもかなり慌てたようで、思わず押し掛けスタートに持ち込んでしまうのです。こうして、波乱を予感させるレースが始まったのです。
このスタートの失敗ですが、実はFZR750はアクセル全閉でセルスイッチを押す設定となっており、慣れないケニーさんは、いつも通りにアクセルを開けてセルスイッチを押していたのです。そして、エンジンが掛からないマシンを押してしまった平さんの行為に違反の判定が下され、テック21チームの関係者がオフィシャルから呼び出される事態となります。随分とヤマハ側とオフィシャル側は討論を繰り返したそうで、ともすれば失格だったかも、とも言われていました。結局、厳重注意と罰金という措置になったのですが、テック21チームはレースの裏でもシビアな戦いをしていたのですね。
スタートに失敗したケニーさんは、1コーナーに入る時点で最後尾から6番目まで順位を下げてしまいました。ですが、その追い上げは凄まじく、21周目には2位までポジションを回復。鬼神のような激しい追い上げを見せるケニーさんの姿に、サーキット中が沸き上がりました。そして満を持して平さんが最初のスティントに向かいます。平さんの追い上げも激しいもので、39周目にはトップの徳野さんに追い付きシケインでパス。とうとうケニー&平組がトップに浮上したのでした!トップに上がった平さんと徳野さんのラップタイムは嘘のような差があって、グングンと離していきます。平さんは2分22秒台、徳野さんは2分28秒台ですから、まるでクラスの違うレースを観ているような展開でした。
実は徳野さんのペースが上がらないのには訳があったのです。ガードナーさんから徳野さんにチェンジした際、あまりの暑さですでにリアサスペンションの減衰が抜け、スカスカになっていたのです。これではまともに走れないという事態に陥っていました。暑さのためと言うのは、夕方になって気温が下がってくると、再び減衰力は効き出したそうなのです。1周で5〜6秒もペースが違ったのには、そういう理由があったのです。
しかし当時は「徳野さんの病気説」がありました。その理由はTV放送された鈴鹿8耐ドキュメント番組で、徳野さんは酸素マスクをしながらインタビューに応じ、「薬は飲んだ」と語ったのです。酸素マスクをしながら薬を飲んだということから、「徳野さんは風邪か何かで身体がツラかった」という話に繋がったのではないかと思うのです……。
しかし、ここでもう一つ不思議なのは、なぜガードナーさんだけケニー&平組と同等のペースで走れたのかということです。その理由のヒントとなるのが’85年のスペンサーさんのNSR500のセッティングだと思うのです。リアサスペンションが硬くて、シートを上から押し込んでも、ほとんど動かなかったそうです。そんな動かないサスでも、スペンサーさんは見事にGP250クラスと合わせてWチャンピオンを獲っているのです!GPを走るトップライダーは、当時からドリフト走行をしていましたから、例えリアサスが利かない状態でも、アクセルワークを駆使してパワースライドでリアタイヤを自由にコントロールし、速いペースで走れたのではないかと考察するのです。
その後もガードナーさんの走行で追い上げ、徳野さんで引き離されるという展開を繰り返し、夕方6時頃には1分30秒差(ほぼ半周)が付いていたのです。そしてオーダー通り最後のスティントが終わってピットインしたガードナーさんは、ピット作業中もマシンから降りず吸水までして、そばに控えていた徳野さんを置き去りにして、再び走り出したのです!これを観ていたグランドスタンドのファンたちは、それほどまでに鈴鹿8耐で勝ちたいガードナーさんの気持ちを感じ取ったのでした。ガードナーさんからすると、異常な状態のマシンに対応できずに苦しんでいる徳野さんをかばう気持ちもあったのでは、と思うのです。
ライトオンのサインが出されてからもガードナーさんの鬼神の走りは続いていました。トップの平さんとの差はまだ1分20秒以上。ガードナーさんがラストまで走るのは最初からホンダの作戦だったそうですが、不思議なのはガードナーさんのヘルメットに付いているシールドはスモークでした。これから暗くなっていく場面には不釣り合いだったのです。本当にホンダの作戦? と思うのですが……。そんな状況下でもガードナーさんは諦めず、平さんを必死に追っていきました。GPライダーの意地だったのでしょう。この時の平さんは、世界GPに数回スポット参戦したのみでしたから。
そして残り時間30分の時点で、信じられない事件が起きたのです。何と1分15秒以上の差があった平さんが駆るFZR750が、薄い白煙を上げてスロー走行を始めたのです。平さんはほぼ1周をペースダウンして走りました。ピットロードに入る仕草を見せながらも、そのままシケインをクリアして、下りの最終コーナーイン側を走ります。そしてメカニックが待つホームストレート上のピットウォールにマシンを立て掛けて止めたのです。平さんはメカニックと一言二言話しをして、そのままマシンを降り、ピットへと戻って行ってしまったのです。その異様な様子はメインスタンドの観客の眼前で起きた、衝撃的な事件となりました。
8時間のうち、残りわずか30 分でのリタイアに、鈴鹿8耐というレースの神秘性を感じます。そしてシビアな面が、一気にファンの前に姿を現したのです。ケニー&平組は182周回でのリタイアとなりました。その後、暗闇の中で必死に追い上げたガードナーさんが195周回を走り、優勝を果たしたのです!合計4回も8耐を制覇したガードナーさんの、初めての優勝となりました。予選ではケニーさんの後塵を拝しましたが、決勝レースで逆転優勝を果たした事で、現役バリバリの若手GPライダーの面子は守られたのです。
とは言え、ケニーさんとガードナーさんは仲違いしている訳でもなく、スタート直前には仲良く話す姿も見せてくれていました。それ以来ガードナーさんを気に入ったケニーさんは、’86年から世界GPに参戦を始めたチームケニーへ、ガードナーさんを勧誘し続けているという話も有名でした。まるで映画のような展開を観せた’85年の鈴鹿8耐のインパクトは、日本のロードレースをメジャースポーツに引き上げる切っ掛けとなったレースだったのでした。