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フォトグラファー折原弘之が振り返る、伝説の『タイラ乗り』を目撃した瞬間

’81年から国内外の二輪、四輪レースを撮影し続けているフォトグラファー折原弘之さんが、パドックで実際に見聞きしてきたインサイドストーリーをご紹介 今月は、バイクブームの先頭を走り、世界GPでも活躍した名ライダー平忠彦さんが、筑波サーキットで見せた、あの有名なフォームについてのお話 [caption id="attachment_655262" align="alignnone" width="900"] 折原弘之(おりはらひろゆき)
1963年生まれ。’83年に 渡米して海外での撮影を開始。以来国内外のレー スを撮影。MotoGPやF1、スーパーGTなど幅広い 現場で活躍する[/caption]

フォトグラファー折原弘之が振り返る パドックから見たコンチネンタルサーカス

僕が初めてロードレースの取材に行ったのは、81年の全日本ロードレース筑波大会だった。当時モトクロスをメインに扱う『プレイライダー』誌でアルバイトをしていたので、ロードレースを撮影するチャンスが無かった。そこで編集長に無理を言って、ロードレースの取材に行ったと記憶している。右も左もわからずライダーの名前すら勉強せずに、取材に出向いたわけだ。プライベートでもサーキットに行ったことはなかったので、サーキット自体が初めての経験だった。今では考えられないほど無謀な取材だったが、当時の僕はサーキットに居られる興 奮と楽しさで、何も考えずに撮影を していた。 なんの基礎知識を入れていかなくても、レースの取材はしなければな らない。そこでプログラムを参考にして被写体の狙いを決めることにした。当時の筑波サーキットでは500㏄クラスのレースも行われていて、多くのスター選手が顔を揃えていた。当時のチャンピオン候補はヤマハの木下惠司選手とスズキの水谷勝選手。僕もその2人を追いかけるつもりで、パドックをうろついていた。すると観客たちは、「筑波だから平だな」とか、「平が勝てば面白いのに」と平選手の名前が、やたら聞こえてきた。そこで僕は、平選手に狙いを変更し、その本人を探し始めた。 筑波サーキットのパドックは小さくて、ガレージにシャッターも付いていないため、ワークスチームはシャッター付きの第2パドックに陣取っていた。そこには他のマシンとは明らかに違う、500㏄のワークスマシンが並んでいた。そして、その端っこにゼッケン62をつけた平選手のマシンも並べられていた。平選手のマシンはワークスのそれとは違うTZ500だったのだが、レーシングマシンを初めて見る僕には、それがどれほどの違いなのかも分からなかった。 18歳の子供がプレスゼッケンをつけて、物珍しそうにマシンを覗き込 んでいたのだ。メカニックが、訝しげに僕を見ていても何の不思議もない。そんなことにも気付かず、熱心にマシンを見ていると本人が現れた。 初めて見る平選手は、「カッコイイ」の一言。こんなかっこいい人が速い んだ、ずるいな。なんてことを思い ながら、ポートレイトをひたすら撮 影しコースに向かった。 コースに出た平選手は、その甘い顔とは裏腹にアグレッシブなライデ ィングを見せてくれた。筑波を走るその姿はまさに「水を得た魚」とい う表現が、ピッタリとハマっていた。他のライダー達が霞んでしまうほど、 美しいライディングフォームで誰よりも速く駆け抜けていた。 これは後で知った話なのだが、平選手は81年の350㏄クラスチャンピオンで、鳴り物入りで500㏄クラスに転向。筑波サーキットを得意にしているライダーということらしい。なんの知識も持たないままサーキットに行ったことで、平選手にマトを絞れたのはまさに瓢箪から駒。僕は夢中でゼッケン62を撮影した。その時はまさか今後10年以上に渡って、被写体の中心にいるライダーになるとは考えもしなかった。 筑波での衝撃の出会いから1年後、筑波ロードレースで今度は平選手が一分を切るかも知れない、との前評判が流れた。39年前のレース界では、誰が最初に筑波で1分を切るのか全ての関係者の関心ごとの一つだった。その頃の僕は全日本ローレースを全戦取材できるようになっており、筑波の1分切りの瞬間は撮り逃せないと思っていた。 その日はフリー走行から好調の平選手。予選でもかなり気合の入った感じだと記憶している。当時の予選 時間はかなり短かったので、予選開始と共に多くのライダーが走り始める。短い筑波サーキットを、一分そこそこで周回する。第1ヘアピンで構えていた僕の前に、変な乗り方で侵入してくる選手がいた。その選手はヘアピン手前のS字コーナーの2個目を、通常とは逆にハングオフしながらクリアしそのままヘアピンに侵入してくる。僕の中では初めて、平選手が「タイラ乗り」をしてきた瞬間だった。そして平選手は初めての、筑波サーキットを1分切りで走ったライダーになっていた。 みんなが1分切りで騒ぐ中、僕はそんな事どうでも良くなっていた。 タイラ乗りを見た瞬間「何じゃそりゃ」と「カッコいい」の両方の感情が、同時に押し寄せてきた。そして頭の中は「あのライディングの写真を撮りたい」という気持ちで一色になっていた。 どうにかその瞬間を撮りたい。しかし撮れる場所が見当たらない。それでも何とかならないものかとコースをウロついていた。当時の筑波サーキットはS字コーナーからヘアピンまでの間にゲートがあり、コース側に多少のスペースがあった。そこに居ることができれば撮れるのだが、規則上入ったら動けなくなってしま う。レース中1カ所から動けないのは、仕事がある以上好ましくない。泣く泣く次回のチャンスを待つことになった。ところが次回は中々訪れなかった。 翌年はゲートが開かず、撮影のチャンスさえ貰えなかった。 そして平選手がチャンピオンナンバーを付けた84年に、ついにそのチャンスは訪れた。しかし、いざ撮影ポジションに着くと、ゲートの先のスペースは極めて狭く、アングルの極めたが、どうしてもタイラ乗りが撮りたかった。1セッションを平選手に費やし撮影する事はできたが、これはほんの始まりに過ぎなかった。 僕が最初に憧れたライダーは、その後も僕の被写体であり続けてくれた。平選手とタイラ乗りはある意味、僕のロードレース撮影の原点なのだ。]]>

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