フォトグラファー折原弘之が振り返る『アントン・マンクの、見えないタイムアタック』
フォトグラファー折原弘之が振り返るパドックから見たコンチネンタルサーカス
’81年から国内外の二輪、四輪レースを撮影し続けているフォトグラファー折原弘之さんが、パドックで実際に見聞きしてきたインサイドストーリーをご紹介
今月は、’85年からホンダのマシンを駆り、スペンサーと覇を争ったアントン・マンクがレースウィークを通して実行した、驚くべき戦略についてを紹介する
折原弘之 HiroyukiOrihara
[caption id="attachment_663625" align="alignnone" width="900"] 1963年生まれ。’83 年に渡米して海外での撮影を開始。以来国内外のレースを撮影。MotoGPやF1、スーパーGTなど幅広い現場で活躍する[/caption]
見えないタイムアタック
何度か書いてきた通り、僕は85年からワールドグランプリを転戦し始めた。85年と言えばホンダが250㏄クラスに挑戦を開始。フレディ・スペンサー選手を擁して、250と500の両クラスを制したシーズンだ。同時にホンダがロスマンズのスポンサードを受け、大量のロスマンズカラーのマシンがパドックに溢れた年でもある。ロスマンズブルーに埋め尽くされたホンダのパドックに、異彩を放つNSR250があった。そのマシンは赤と白に塗り分けられた、マルボロレッドにカラーリングが施されていた。 ホンダファクトリーは、ロスマンズと契約したのではなかったか。これが最初の疑問だった。実際HRCはロスマンズと契約していたが、この男アントン・マンクだけは例外だった。逆に言えば、そこまでしてHRCはこの男を欲しがっていたのだ。日本人的な見地からしか物を見られなかった僕は、そこまでして欲しがられたライダーにがぜん興味が湧いてきた。 僕はこの年は後半戦から担当だったので、前半戦の成績を確認してみるとフレディ、カルロス・ラバードに続いてランキング3位。間違いなくトップライダーの成績だ。でも初めて見るマンクは、フリープラクティスから予選まで5~6位をウロウロしておりトップライダーとしてはイマイチ。ところがレースになると、フレディやカルロスに負けないスピードを見せトップグループを快走する。そのスタイルは、どのサーキットに行っても変わらなかった。なぜマンクは、予選では速くないのにレースでは速いのか。とても謎めいた選手だった。 マンクの謎の答えが出ないまま数レースを消化したある日、僕の師匠の坪内さんが、HRCの総監督だった尾熊さんと会食する機会があった。尾熊さんと旧知の仲の師匠は、GPライダーについて、あれこれと話に花を咲かせる。僕はと言えば、見ること聞くこと知らない事ばかりで楽しく話を聞いていた。そこでもマンクの話になったので僕は「なぜマンクは予選では遅いのに、レースになると速くなるんですか」と、日頃の疑問をストレートにぶつけてみた。すると尾熊さんは、師匠と顔を見合わせ大爆笑。半分呆れた顔で説明してくれた。 「折さん(尾熊さんは僕をそう呼ぶ)はGPが初めてだから分からないのかもしれないけど、マンクさんは繋げてこないんだよ。アイツは予選で1周ずっと全開で走ることをしないんだよ。必ずどこかで抜いて来るんだ。例えば3コーナーをコンマ2秒抑えるとか、どこかのコーナーを500回転下げて回るとか。そういうことをするんだな」
