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イラストレーター松屋正蔵が描く『熱狂バイク』クロニクル/タイラ乗りを考察してみた

半年間で進化した? 平忠彦のハングオフ この連載では初めての日本人ライダーを取り上げさせていただきます。それは平忠彦さんです。 平さんは全日本GP500でV3を達成し、86年から世界GPにフル参戦しました。しかも、専門のGP500ではなく、GP250クラスでの参戦でした。84~85年はGP500へのスポット参戦を経験してからのフル参戦でしたから、充分な準備がなされていたと思われます。 そしていよいよの86年となりましたが、開幕戦スペインGPでアクシデントが起きます。予選2位でフロントローからのスタートでしたが、押し掛けが上手くいかず、後続車に 追突されて左足骨折という負傷を負ってしまいました。この事故がきっかけとなって、翌87年からエンジンを掛けたままのクラッチスタートとなったと私は理解しています。 初戦から大怪我を負った平さんはそれでも諦めずシーズン最終戦、第11戦サンマリノGPにて初優勝を果たしました。今回のイラストはこのサンマリノでの平さんを描きました。このレースを間近に観ていたチームロバーツ監督のケニー・ロバーツさんは「平は終始タイヤを滑らせ続けていた。誰よりも速かった!」と述べています。 サンマリノGPでの平さんは、またも押し掛けスタートが上手くいかず、ほぼ最後尾からの追い上げとなります。しかしトップをぶっちぎっていたラバードさんの単独転倒リタイアあたりから、それまでの2位集団に追い付き、幾度とない果てしなくも思えるドックファイトを繰り返し、最後にはトップでチェッカーフラッグを受け、世界GP初優勝を遂げました! 凱旋帰国の成田空港での記者会見がお昼のニュースにも流れました。この優勝に日本中が騒いだ瞬間でした。 ところで平さんのライディング考 察ですが、僕が知る限り 85 年の鈴鹿8耐の時には、まだハングオフスタイルを上手くこなしているだけの印象でした。しかし、86年の全日本開幕戦となった鈴鹿ビック2&4では既に最高のバランスでマシンに体重を預けており、実に安定して速くなっていました。腰部のオフセットが的確な量で、頭はセンターにありながら若干イン側に入る感じのライディングフォームとなっていました。これなら世界GPでも充分に通用する! と見えました。 それまでの乗り方は、腰をオフセットし、背中が立っている感じで頭(目線)は意識的に水平を保っていました。それがマシンに対して、体重の掛け方が適切な感じに変わって来ていました。果たして前年の鈴鹿8耐から鈴鹿ビック2&4までの半年間に何があって、世界に通用するハングオフスタイルを確立したのかを伺ってみたくもあります。この年の世界GP終了後に開催された、菅生TBCビッグロードレースと、全日本ロードレース最終戦日本GPで、ローソンさんとガードナーさんを破った平さんのカッコ良かった事ったらありませんでしたから! ]]>

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