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本音で語る。とことん語る。Talking Grid 元ヤマハ・ファクトリーライダー難波恭司さん

元ヤマハ・ファクトリーライダー 難波恭司さん                                         広島県出身。ヤマハの市販レーサーTZ250、ファクトリーマシンYZR250などの開発を行いながら、全日本ロード250ccにも参戦。チャンピオン争いに絡む活躍をした。オンロードからオフロードまで幅広い舞台でバイクを操ることを楽しむ人

中野真矢
’77年生まれ。千葉県出身。ポケバイ、ミニバイクを経てロードレースにステップアップすると、’97年にヤマハ・ファクトリー入り。’98年には全日本ロードGP250クラスでチャンピオンを獲得。’99 年からは世界に舞台を移して活躍した

先輩も後輩もない 同じ目的に向かう“仲間”だった

中野 いやぁ難波さん、お久しぶりです!
難波 え? そうだっけ? 久しぶりだったっけ?(笑)最近物忘れがひどくてさ。             自分が誰かもよく分かんなくなってきちゃって。
中野 (笑)そうやって小ネタを挟んでくるあたり、相変わらずお元気そうですね。
難波 いやもう、ボロボロだよ。腰は痛いし腰が痛いし腰も……。
中野 ……偉大な先輩にはどうにもツッコミづらいんですが……、
小ネタはともかく、こうやって難波さんときちんとお話することもなかなかないですよね。
実は僕、難波さんにきちんとお礼をしなきゃ、と思っていたことがあるんです。
難波 なになに? 急にかしこまって。昔あげたお菓子のこと?
中野 違います(笑)。僕が全日本250㏄クラスでヤマハ・ファクトリーチーム入りしたのは97年なんですが、開幕戦の鈴鹿で、僕、めっちゃくちゃ緊張してたんですよ。
何しろ憧れていたファクトリーライダーにようやくなって、最初のレースでしたからね。地に足が着いていなかった、というか……。
難波 ふわふわ〜っと浮いちゃってたわけね(笑)。
中野 そしたら、スターティンググリッドに難波さんが来てくれて、呼吸法を教えてくれたんですよ。「こうすれば落ち着くよ」って。それで僕、すっかり安心できたんです。
開幕までの間に、僕も袋井のヤマハテストコースには行ってたから、そこで難波さんとはお話をさせてもらってたんですよ。
当時、難波さんは確かYZR500のテストを担当されていて、テストコースでもバンバン走っていた。みんなピリピリしている中で、難波さんはまだ19歳だった僕みたいなペーペーにも分け隔てなく接してくれたんです。一番話しやすい方でした。
その難波さんが、わざわざ僕のグリッドまで声をかけにきてくれたのがものすごくうれしくて。スーッと気持ちが落ち着いたんです。あの時は本当にありがとうございました。
難波 ……真矢……。
中野 はい!
難波 ごめん、全ッ然覚えてない。
中野 ズコーッ!(笑)
難波 だいたいオレその時、全日本に行ったのかも覚えてない(笑)。とにかくテスト、テストでめちゃくちゃ忙しかったからね。
……何か仕事があって行ったのかなあ。覚えてないなぁ……。
中野 もう(笑)。
僕、その後GPに行ってからも、緊張しちゃった時は難波さんが教えてくれた呼吸法を実践してたんですよ〜?
難波 でもさ、そんなに接点はなかったよね?
オレは開発で忙しかったし、真矢は真矢でレースがあったわけだし。
中野 当時のヤマハ・ファクトリーには、健輔さん(芳賀健輔)、紀行さん(芳賀紀行)、和多留さん(吉川和多留)たちがいて、僕は1番年下でした。
皆さんとても仲良くしてくれたけど、やっぱり先輩でしたからね。威厳があって、ちょっと近寄りがたさはあったんです。でも難波さんは当時すでに開発に回っていたこともあってか、すごく話しやすかった。ちょうど間に立ってくださったっていう感じですかね。
難波 そんなに意識してはいなかったけどねぇ。
でも、同じヤマハの看板を背負って、レースに勝つっていう同じ目的に向かってたわけだから、先輩とか後輩って考えはオレにはあまりなかったね。みんな仲間だと思ってたから。
メーカーのファクトリーライダーにまでなるような連中だし、速いのなんか当たり前。だからああだこうだと上から教える必要なんかないと思ってたしね。
自分の経験してきたことの中から役に立ちそうな話ぐらいはしたかもしれないけど、その程度じゃない?
中野 そうですね。難波さんにも、他の人にも、ああしろ、こうしろと言われたことはほとんどないです。
難波 だってファクトリー入りした時点でプロなんだからさ。教わってるようじゃダメだよね。
オレの時代や、それより前はもっともっと縦社会だったから、先輩とは口を利くことさえできなかったよ。
だから先輩のいいところを盗み取ってやろうと懸命だった。
でも、いざ自分が先輩と呼ばれるようになって、そういう縦社会も良し悪しあるなあ、と思ったんだよね。
少なくとも「オレの言うことを聞け!」みたいなやり方は、自分の性分には合わなかった。
だから自分のスタイルでやろう、という思いはあったかな。それで呼吸法でも話したのかもしれないけど、
う〜ん、全然思い出せない(笑)。
中野 僕なんか根が体育会系なのか、縦社会もいいところがあるんじゃないかな、
なーんて思っちゃいますけどね(笑)。難波さんはそのあたりのバランスが素晴らしかった。
だいたい、ヤマハのテストコースを走れるってだけで感激でしたからね。
僕らレーシングライダーも、市販レーサーTZ125の完成検査に駆り出されたりすることもあったんですよ。ガス欠テストとかもやったなぁ。もうホント、走れるだけでうれしかったです。
難波 ガチの開発ライダーだと、雨が降ろうが雪が降ろうが槍が降ろうが走らなくちゃいけないから大変だったけどね。あ、槍は降らないか。
でも、確かにメーカーのテストコースを走れるって、ちょっと特別だよね。メーカーがバイク開発をするうえで、良し悪しを判断するベースになるわけだから。
中野 自分のライダーとしてのベースを作ってくれたのも、テストコースだったような気がします。同じコースをひたすら走りながら、いろんなパーツを取っ替え引っ替えテストしますからね。
そういう経験の中で、ライディングの基礎を固めていった。
……話しながら思い出してきました! 僕らレーシングライダーはちょっと雨が降ってきたりするとすぐピットに戻っちゃってたんです(笑)。
「これじゃ走れねえよなあ」なんて言いながら。
でも開発ライダーの難波さんがコツコツと走り続けてテストをこなしてる姿を見て、レーシングライダーのみんなも「……僕らも走らないとな」なんて、コースインしたりしてましたよ。
難波 何とも不思議な関係性だよね。さっき言ったみたいにみんな基本的には仲間。一緒に過ごす時間は長いし、おじいちゃん的な大先輩や、お父さん的な先輩もいて、家族みたいな親しさもある。
だけど、結局のところはライバルっていうね(笑)。お互いに心のどこかには「アイツには負けねえ」という気持ちがあったはずだよ。
そういう心の強さ、バイクに乗ることで誰かに負けた時に、それが仲間だろうと「何クソ!」と踏ん張るような気持ちの強さがなきゃ、上には這い上がれないよ。
真矢だって、ファクトリー入りした当時は大学生で、いかにも頭がよさそうでさ(笑)。自分のライディングをしっかり分析してる姿が印象的だった。スマートな子だな、と思ってたよ。
だけど、絶対にそれだけじゃない。だって、全日本でタイトル獲って、世界グランプリまで行っちゃったんだよ?
オレなんか全然成し遂げられなかったことをやってのけたんだから、人並み外れたものすごく強い気持ちを持ってるってこと「仲間」なんて言ってるけど、はっきり言って尊敬してるよ。
中野 いやいやいやいや、難波さんにそんなこと言われたら落ち着かないですよ。
僕なんかホント、ファクトリーの中では1番年下だったから、とにかく必死でした。
「ここで先輩たちに食らいついていかなきゃ後はないぞ」って切羽詰まってた。「何かヒントはないかな」って、先輩たちの会話に聞き耳を立てたりしてましたよ。
難波 それだよ、それ。そういう心意気。簡単に言っちゃえば、どれだけ本気かってことなんだよね。
真矢は本気だった。オレなんかも時々は何かアドバイスしたかもしれないけど、そんなことより真矢自身が目標を見据えてそこに向かって頑張ってたってことだと思う。
中野 ……。難波さん……。
難波 はい!
中野 誌面が足りなくなってしまったので、次回は第二部ということで、ご登場お願いします。
難波 はい!?
中野 まだまだ伺いたいことがたくさんあるんですよ、難波さんには。
難波 は、はい!
「何クソ!」という強い気持ちが、這い上がるには絶対必要だ(難波)

レーシングライダーとして 開発ライダーとして活躍


開発ライダーとしてマシン開発という重要な役割をこなしながら、レーシングライダーとして全日本ロードにも参戦していた難波さん。トップ争いを演じる活躍を見せた。ヤマハの2ストGPマシン、YZR500の開発にも携わり、’98年には負傷したライダーの代役で日本GPに参戦。予選2位、決勝5位に

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