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Wickマシノのとっておきのエピソード【1度は諦めたフレディの自叙伝プロジェクト】

そして突如現れた天才ライダーのフレディ・スペンサー。’82年から世界GPにフル参戦し、デビューシーズンは全12戦中、優勝2回を含む5回の表彰台登壇で、ルーキーながらも年間ランキング3位となりました。翌年は“キング”ケニーとシーズンを通じて激しい攻防を繰り広げ、21歳8カ月で見事チャンピオンの座に輝きました。この最年少記録は13年にマルク・マルケスに破られるまで、ずっと彼のものでした。

彼と同い年の私が、写真ではなくブラウン管のテレビで初めて走りを見たのが、’83年に500㏄の世界チャンピオンとして参戦した、鈴鹿サーキットで行われた全日本選手権の日本グランプリでした。押しがけでヒラリとNS500に跨がったフレディは、後続を大きく引き離して1コーナーに進入していったのです。日本のライダーにつけ入る隙を与えない、圧勝のレースでした。とんでもない速さを見て、これが世界のトップなんだと感銘しました。

後年、この映像の商品化のご要望を多くいただき色々と調べた結果、テレビ東京で制作放送されたことをつきとめました。解説は、当時ライダースクラブ編集長だった根本健氏。テレビ局で保管されているライブラリーを調べたのですが、残念ながらマスターテープのリストには「廃棄」という文字だけが残されていました。

そんなフレディとのファーストコンタクトは、’89年にマールボロカラーのYZR500でグランプリに復帰した開幕戦の鈴鹿でした。予選後にニコやかにインタビューに答えてくれた彼は、決勝ではロケットスタートを見せ、天才ライダーの復活かと思われましたが、残念ながら好成績を残すことは叶いませんでした。

次にフレディとコンタクトをとったのは’12年。テキサスで取材に応じてくれることとなりました。インタビューの模様は、弊社から発売している『フレディvsケニー1983W.G.P.500㏄』に収録されています。その席で「今年、鈴鹿サーキットは50周年だからケニー・ロバーツやエディ・ローソン、ワイン・ガードナーたちを呼んでイベントを開催するんだけど、フレディも日本に来る?」「ワオ! もちろん!」ということでイベントに参加したという経緯がありました。

さて、’15年のMotoGP、日本グランプリにデモランで参加するため来日予定のフレディから「ミーティングをしたいので、もてぎで食事をしよう」と誘いを受けました。内容は自身が出版する自叙伝を日本で発売して欲しいというものでした。

弊社ではこれまでにも二輪関連書籍を出版していたことをフレディは知っていたのです。しかし日本は出版不況の問題もあり、その時は「難しい」とやんわりお断りしました。

翌年、フレディから「実は今度出版する本の表紙にするため、’84年か’85年の写真を探しているんだ。添付した写真を見てくれれば分かるように、後方から左コーナーのライディングを撮影しているものなんだ。同じようなアングルから撮影した写真を、日本のカメラマンの誰かが持っていないか探してくれない?」とメールが来ました。

何人かの知り合いのカメラマンに連絡をとるものの、フレディの希望する“左コーナー後方からのアングル”で撮影していたカメラマンは誰もいませんでした。右コーナー後方からの写真はありましたが、彼は左コーナーにこだわっていました。

そこでメールに添付された写真をインターネットで検索しまくり、写真を撮影したカメラマンを探し出しました。ドイツのカメラマン、マンフレッド・モーテス氏でした。彼の連絡先をフレディに送り、無事に表紙として使われることになりました。

それから5年が経ち、ここ2年はコロナ禍の影響でマン島TTや鈴鹿8耐の公式DVD/BDなども発売できないことから、フレディの自叙伝を何とか実現させる方法がないか模索していました。そして行き着いたのがクラウドファンディングのプロジェクトを立ち上げることでした。

もしも目標金額に達しない場合は、不成立となる可能性もフレディに伝えました。それでもチャレンジし、達成できた時には日本のファンに自叙伝を読んでもらうことに、私とフレディは賭けることにしました。

前述のカメラマン、マンフレッドも協力してくれるとのことで、なんとかこのプロジェクトを成功させたいと考えていますので、皆様のご協力をよろしくお願いいたします。プロジェクトが立ち上がりましたら、私のSNSで発信しますのでFacebookTwitterInstagramでのフォローもお願いします。

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