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モノを造るヒトの想い|船橋 潤さん【G sense】

サスセッティングは難しい。手軽に調整できるパーツなのだが、恐ろしく奥が深い。そのサスペンションの迷宮に魅せられたプロフェッショナルであるG sense代表の舟橋 潤さん。プロショップとしてトップチームのレースをサポートし、オリジナルのフロントフォークまで開発。もはやいちショップの域を超え、メーカーの領域に足を踏み入れた“サスペンションの賢人”だ。

G sense 舟橋 潤さん
’75年生まれ、愛知県出身。父親がヤマハ社員であったことで、バイクを身近に感じ育つ。アメリカに住んでいた高校生時代にレース活動をはじめ、帰国後25歳まで選手権に参戦。バイクレース専門誌編集部員、オーリンズ製品輸入販売元勤務を経て独立、Gセンスを設立。

サスペンションだけでこれほど走りが変わるのか!?その驚きが足まわりのプロへと導いた

バイクにとって不可欠であるのは分かる。ライディングで大きな役割を果たしていることも何となく分かる。だが、今ひとつ付き合い方が分からない。多くの人が、そう感じているのがサスペンションだ。そのサスペンションのプロショップとして、今注目を集めているのがGセンス。サスペンションのオーバーホールなどメンテナンスやセッティングを多く手がけ、そのクオリティの高さで支持を集める。オリジナルパーツでは完全自社開発のフロントフォーク「Gフォーク41φ」をラインナップしている。

近年増加中のインナーチューブφ41mmの倒立フォークなのだが、社外品が存在しないタイミングで、他に先駆けてリリース。舟橋さんのノウハウが全て注ぎ込まれている
近年増加中のインナーチューブφ41mmの倒立フォークなのだが、社外品が存在しないタイミングで、他に先駆けてリリース。舟橋さんのノウハウが全て注ぎ込まれている
Gセンスが独自開発したフロントフォーク「G-Fork41φ」
Gセンスが独自開発したフロントフォーク「G-Fork41φ」

同社の代表を務める舟橋潤さんは、なかなかに面白い経歴を持つ人物。異色のサスペンションスペシャリストは、如何にして誕生したのか?まずは、少年時代のエピソードから伺ってみよう。

「父がヤマハの社員で、マリン関係の部署で働いていたんです。ですから、バイクを身近に感じる環境ではありましたね。バイクの原体験も、親に乗せてもらったものです。5〜6歳の頃、父の駐在先だったメキシコのオフロードコースで、キッズバイクに乗りました。衝撃でしたね、虜になりました。それ以来〝行きたいところはあるか?〞と聞かれれば、バイクに乗れるところと答えていました。連れて行ってもらえたのは、せいぜい年に2〜3回でしたけど、止められるまで1日中走っていましたね」

メキシコで過ごしたのは5〜10歳の間。日本に戻ると一旦バイクとの縁が切れ、メキシコ時代から取り組んでいたサッカーに熱中。ヤマハのジュニアチームに所属し、中学生時代には、静岡県西部選抜チームの選手にも選ばれたというから、有望なプレーヤーであった。高校進学時には、部活推薦の誘いもあったというが、舟橋さんはそれを蹴ってしまう。理由は消えることのなかったバイクへの想いだ。

「当時、WGPのTV中継が深夜に放送されていて、毎週欠かさず観ていました。高校生になったらバイクレースをやると決めていたんです。」 

人生を決めたきっかけとなったのは1989年の日本GPだった。ウェイン・レイニーとケヴィン・シュワンツによる伝説のバトルは、舟橋さんを完全にノックアウトした。

「中学は自転車で通っていて、通学路にワインディングがあった。そこを攻めていました(笑)。がんばり過ぎて側溝に落ちたりしましたね。レースに勝ったライダーが、バイクに立ってガッツポーズするじゃないですか? その真似をしていたら急にクルマが曲がってきて、コッチは手放し運転だから避けようがない。正面衝突したこともあります」

 だが、レーシングライダーへの道は、簡単には開かなかった。

「まず、親が認めてくれませんでした。ですが、自分も譲らないものだから『この高校に合格できたらレースをやってもいい』と、自分の成績では難しい学校への進学を条件に出されました」

猛勉強して見事難関校に合格。レースに挑戦する権利を、自らの力でもぎ取ったのだ。高校に入学し、バイクも自力で入手。だが、ミニバイクコースを走り始めたところで、親御さんのアメリカ転勤が決まる。

「レースをやりたかったので、自分は日本に残ろうと思ったんですが、『レイニーもシュワンツもロバーツもアメリカで育ったんだよ』と親に諭されまして……。まんまと口車に乗せられてしまいました」

もっとも、息子を連れ出す方便というわけでもなかったようだ。引っ越しの荷物に紛れ込ませて、愛機YSRをアメリカまで運んでくれたのだ。舟橋さんは電話帳でバイクショップやサーキットを調べ、英語に苦しみながらレース参戦の道を探った。 住まいからそう遠くないサーキットで、南カリフォルニアミニバイクレース選手権というシリーズが開催されていることを知り、渡米翌年に参戦を開始。すると、いきなりシリーズチャンピオンを獲得。〝速い日本人〞として知られる存在となった舟橋さん。そして同じ時期、もう一人の日本人少年がアメリカで噂になっていた。〝ノリック〞こと故阿部典史さんだ。

アメリカでミニバイクレースに取り組んでいた時のスナップ。参戦初年度に圧倒的な強さでチャンピオンを獲得した。そのシリーズ戦は、後にMotoGPライダーとなるジョン・ホプキンスが走っていた
アメリカでミニバイクレースに取り組んでいた時のスナップ。参戦初年度に圧倒的な強さでチャンピオンを獲得した。そのシリーズ戦は、後にMotoGPライダーとなるジョン・ホプキンスが走っていた

「ノリックのことは〝凄い日本人がいる〞と伝わってきましたね。宮城光さんがアメリカで走っていた頃で、一度食事に連れて行ってもらったことがあります。原田哲也さんのGP初年度のラグナ・セカも観に行きましたよ。コークスクリューの金網にかじりついていました。当時は世界GPで日本人が勝って当たり前でしたし、自分もこの道を行けば道は開けると信じていました」

 アメリカで高校を卒業した後は、日本に戻り本格的にレース活動を行うと決めていた。

「日本に戻ったノリックが、華々しい活躍をしている。自分も、同じように派手なデビューをすると思い込んでいましたね」 だが現実は厳しかった。帰国してからの1年間は、レース資金をつくるために大学に通いながらアルバイトに明け暮れた。1995年から筑波選手権の125㏄クラスにエントリーを開始するも、1年目と2年目は鳴かず飛ばず。3年目にようやく上位を走れるようになり、ヤマハのサービスアドバイザーにSP忠男レーシング加入を勧められる。

「目玉のヘルメットを被るのは、ライダーにとってステータスです。嬉しい反面、プレッシャーも感じました。勝って当然のチームですから」

SP忠男には2年間在籍、2年目の1999年は関東選手権でランキング2位を獲得した。だが、ここでレースを離れる決断をする。

1998~1999年の2年間、数々のトップライダーを輩出してきた名門チーム、SP忠男レーシングに所属。写真は1998年筑波ロードレース選手権第6戦。SP忠男に移籍してから初優勝を飾ったレース
1998~1999年の2年間、数々のトップライダーを輩出してきた名門チーム、SP忠男レーシングに所属。写真は1998年筑波ロードレース選手権第6戦。SP忠男に移籍してから初優勝を飾ったレース

「チャンピオンが獲れたら、翌年は全日本という話になっていました。けれど、獲れなかった。客観的にみて、プロライダーとしての未来はないと見切ったんです。レースで大きな借金も作っていましたし、大学は留年していましたが、ちゃんと卒業して就職しよう、と……」

大学で在籍していたのは、生涯スポーツ学部。卒論のテーマに、モータースポーツをスポーツとして定義することを選んだ。そこで、その道の達人から知見を得るべく、バイクレース専門誌『ライディングスポーツ』編集長の青木淳さんに接触。

完成した卒業論文を読んだ青木さんは、舟橋さんを編集部のアルバイトに勧誘。これも機会と編集部入りしたところ、月刊誌の編集は想像を超える激務。授業を受ける暇などなく、大学は中退。そのまま編集部員として就職した。ライダーとしてのスキルを生かし、インプレッション記事を多く担当。5年間勤めた後、オーリンズの輸入販売元のカロッツェリアジャパンに転職した。

「ライディングスポーツでは、全日本参戦チームからマシンを借りて比較試乗する企画がありました。当時のST600クラスは、ショックユニットの変更が不可で、ノーマルをモディファイしたものが使われていました。元は同じパーツなのに、乗り味は驚くほど違う。ものすごく興味を惹かれました。現役時代から足まわりにはこだわるタイプでしたし、走りのポイントは足まわりだと考えていたんです。サスペンションは面白い、サスペンションに関わる仕事をしたいと思うようになったんです」

取り扱っていたのはオーリンズ製パーツ。自身を持って薦められた。だが、仕事に取り組むうちに、足りないものがあると感じるようになる。

「オーリンズの製品は素晴らしい。ハードの部分は問題ないわけですが、ソフトの部分が不足していました。ショックユニットを交換したものの、ツルシのまま乗っている人が多い。サスセッティングを施せば、その先があるんです。そうしたソフトの部分を細かくサポートできれば、バイクはもっと楽しんでもらえるはずだと考えるようになりました」

2010年、サスペンションのプロショップとしてGセンスを立ち上げた。同社には、設立当初からの独自メニューに「試乗セットアップ」がある。これは、持ち込まれた車両を舟橋さんが試乗、サスセッティングを施すというものだ。

Gセンスには、さまざまな足まわりの相談が寄せられる。サスセッティングサービスである「試乗セットアップ」ではもちろんだが、それ以外も入庫した車両は全て舟橋さん自身が試乗を行う。実際に走り込むことで問題点を洗い出し、改善の方向性を探っているのだ
Gセンスには、さまざまな足まわりの相談が寄せられる。サスセッティングサービスである「試乗セットアップ」ではもちろんだが、それ以外も入庫した車両は全て舟橋さん自身が試乗を行う。実際に走り込むことで問題点を洗い出し、改善の方向性を探っているのだ
舟橋さん自身、レベルの高いサスペンションのメカニック。開業当初は全ての作業を一人で行っていた。「最近はスタッフに任せることが多いから……」と言いつつも、淀みない手つきでショックユニットの分解整備を披露してくれた
舟橋さん自身、レベルの高いサスペンションのメカニック。開業当初は全ての作業を一人で行っていた。「最近はスタッフに任せることが多いから……」と言いつつも、淀みない手つきでショックユニットの分解整備を披露してくれた

「お客様の要望や問題点をヒアリングしてから、実際にバイクを走らせてみて、サスセッティングを行います。ほとんどの方には、ご満足いただけていますが、自分のセットが好みでない方もいらっしゃいますし、その場合は納得していただけるまで、お付き合いします。試乗セットアップは、6600円の料金をいただいています。最初は『高い』と言われました。バイクに乗って、ちょっと調整するだけだろう? って。ですが、ある日『今までに支払った6600円で、一番価値があった』と言ってもらえたんです。嬉しかったですね」

舟橋さんの、サスペンションへの情熱と探究心は増すばかりだ。

「サスペンションには、絶対的な正解がないんです。モトGPのチャンピオンのセッティングが正解かというと、それも違います。乗る人それぞれに最適解があって、どれも間違いじゃない。ですから、個々のユーザーに合わせたサービスが大切です。人によって違う正解を探り出していくのが、Gセンスの仕事。どこまでも探求していけます。だから、サスペンションは面白い。サスペンションで日本のバイク文化を変えたいんです」

舟橋さんのスキルを持ってすれば、“舟橋さん好み”のセッティングを施すのは容易。だが、それがオーナーの望むものであるとは限らない。舟橋さんは、オーナーに対し入念なヒアリングを行い、セッティングの方向性を定める
舟橋さんのスキルを持ってすれば、“舟橋さん好み”のセッティングを施すのは容易。だが、それがオーナーの望むものであるとは限らない。舟橋さんは、オーナーに対し入念なヒアリングを行い、セッティングの方向性を定める
舟橋さんのZ900RSレーサー。テイスト・オブ・ツクバを舞台に実戦テストを行っている。フロントフォークは「G-Fork41φ」で、リアショックはオーリンズをGセンスでモディファイ。本誌2022年2月号で紹介しているので、ぜひ読み返してみて欲しい
舟橋さんのZ900RSレーサー。テイスト・オブ・ツクバを舞台に実戦テストを行っている。フロントフォークは「G-Fork41φ」で、リアショックはオーリンズをGセンスでモディファイ。本誌2022年2月号で紹介しているので、ぜひ読み返してみて欲しい

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