モノを造るヒトの想い|金田哲幸さん【EIGHT/才谷屋】
少年時代、誰しも叶えたい夢を持っていただろう。その夢を追いかけることすら、出来ない人が多いのが現実だ。ここで、あなたの夢が実現しそうな状態にあったとしよう。けれど、手が届きそうな夢が、目の前で消えたとしたら?その絶望は計り知れない。エイト代表の金田哲幸さんは、そんな過酷な経験を経て、現在は〝毎日が充実している〞と笑顔で語れる人物。金田さんを支えてきたのは、モノ造りの喜びだった。
PHOTO/D.HAKOZAKI, EIGHT TEXT/K.ASAKURA
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好きこそものの上手なれ。とはよく言ったもので、バイクの世界で何かを成し遂げた人は、子供の頃から大のバイク好きという人が多い。その点、エイト代表の金田哲幸さんは、かなり異色の存在だ。
エイトは、才谷屋ファクトリーとハート・コンポジットラインの2ブランドを中心に、バイク用ファイバーパーツを豊富にラインナップするメーカー。だが、金田さん自身は四輪レースのドライバー出身。それも〝かじった〞というレベルではなく、フォーミュラカーで戦っていた本格派だ。ではなぜ、今はバイクの世界に身を置いているのだろうか? その生い立ちから探っていこう。まずは、四輪レースに足を踏み入れたところからだ。
「父の影響が大きいですね。父がカートでレースをやっていたんです。自分が子供の頃は、現役で走っていました。カッコ良く見えましたねえ。オレもカートをやらなアカン! お父ちゃんの後を継ぐんや! と、子供ですからなんとなくですが、そう考えていましたね」
このお父さんもただものではない。プロレーサーでこそなかったというが、レーシングカートの国内最高峰である全日本カート選手権のレギュラードライバーであったのだ。金田さんは、少年時代はクルーとしてお父さんのレースを手伝いカートの勉強を重ね、中学2年生で本格的にレース参戦を開始。高校生になると才能が開花、高校2年生の時には全国大会で2位、高校3年生の時には同大会で5位という成績を残す。
「オレはこのまま四輪のプロになるんや! いつかF1に乗るんだって思い込んでいましたね。頑張れば世界で戦えるという手応えも感じていました」
と、ここまで四輪一直線だった金田さん。全くバイクとの接点がなさそうだが、そうではない。「父はカートを始める前にはモトクロスをやっていたそうなんです。自分も小さい頃からキッズバイクに乗せてもらっていました。4歳くらいからですかねえ? 物心ついた時には乗っていました。レースに出たりはしませんでしたが、近所の河原で走り回っていました。全開にした時の爽快感は、いまだに覚えています。気持ちよかったなあ……」
お父さんのカートレースを手伝うようになると、キッズバイクは卒業。高校生に上がってから、バイクの免許を手に入れ、一般ライダーとして改めてバイクデビューを果たす。
「友達とツーリングに行ったり、峠を走ってみたり……。ごく普通の高校生のバイクの遊び方です。楽しくて仕方ありませんでしたね。バイクって、なんて素晴らしい趣味なんだろうと思いました」
ここで、バイクの世界へ進路を変えようとは考えなかったのか?
「バイクを競技と完全に切り離して見ていたんですよね。カートのレースでは、周りは全部敵だって考えていましたから。だから、カート仲間とか、レースを通じて出来た友達とかまったくいませんでしたから。今にして思えば、どうしてそんなにギスギスしていたのかと不思議に思うくらいです。(笑) その点、バイクはただただ楽しむために乗っていましたから、もう〝楽しい〞しかないわけです。こんな世界があるのかって、ビックリしましたよね」
ストイックに競技性を突き詰めていたカートレースとは異なり、バイクは〝楽しいこと〞の象徴だった。そのせいか、高校卒業後の進路はバイク関連企業を選んだ。
「実家の近くに、何かバイクのパーツを造っている工場がある。面白そうだなって、訪ねてみたんです」
それが、ファイバーパーツメーカーの才谷屋ファクトリーだった。
「社長と話してみたら、当時所属していたカートのチーム監督と知り合いだったりして、トントン拍子で就職が決まりました」
ここで、金田さんはファイバー職人としての第一歩を踏み出しのだ。だが、あくまで軸足は四輪のレーシングドライバーだった。
「社会人一年目は、ホンダRS125のエンジンを使ったスーパーカートというシリーズに参戦しました。これは、カートコースではなく、本格的なサーキットのフルコースを使うレースです」
このレースで金田さんは頭角を表し、第1戦で2位、第2戦では優勝を飾る。しかし、第2戦のレース後にコントロールタワーから呼び出されてしまう。通常、コントロールタワーからの呼び出しは、ペナルティの通告や、レースに関する叱責だ。「何かやらかしちゃったかな? と、ビクビクしながらタワーに行ったら、〝来年ウチのチームで走らないか?〞という、スカウトだったんです」
そのレースで競技委員長を務めていた人物が、あるチームのオーナーで金田さんの走りを見初めたのだ。翌年は、フォーミュラカーの登竜門的レースだったフォーミュラトヨタに参戦。そこでも金田さんは速さを見せ、最多獲得ポイント数を記録。だが、ポイント制度の関係でチャンピオンを逃してしまう。
「チャンピオンが獲れれば、トヨタのワークス体制でF3を走れるスカラシップを受けられた。ですが、メでした。翌年は、フォーミュラドリームというカテゴリーを走りましたが、成績が残せず……。レース資金のために借金もかさんでいましたし、レーシングドライバーの道は諦めることにしました」
まだ20代前半の若者だ、苦渋の決断だったに違いない。フォーミュラドリーム時代に復帰していた才谷屋ファクトリーで、ファイバーパーツ製作に無心に取り組んだ。時は2000年代初頭、四輪のエアロパーツが大流行していた時代で、仕事はいくらでもあった。だが2008年にリーマンショックが発生、景気停滞の影響がパーツ業界に忍び寄る。
「徐々に会社の空気がおかしくなってきて……。2013年の夏、社長から〝今年10月で会社を解散する〞というメールが届いたんです。忘れもしませんよ、家族旅行で海水浴に出かけていた時でしたから。子供を海で遊ばせながら、頭は真っ白です。なんちゅうタイミングで報せてくるのかって話ですよね(笑)」
職場が無くなるのだ、笑い事ではない。しかし当時の金田さんは、独立を考えていたこともあり、即座に次に向けて動き始める。
「自分が造った型を買い取らせて欲しいと持ちかけたんです」
型は、職人にとっての作品。型さえあれば、ファイバー製品生産のイニシャルコストは低く抑えられる。
「そうしたら〝お前が会社を引き継いでみないか?〞と言われたんです。迷いましたけど、先輩から聞かされた〝ピンチはチャンスだ〞という言葉を思い出したんです。今、ピンチと感じているのだから、挑戦するチャンスなんだと考えたんです」
2013年、エイトを設立。才谷屋ファクトリーという名前は、ブランドとして残した。そして社長となった金田さんが、最初に行ったのがバイクパーツ専門に舵を切ったことだ。その理由はこうだ。
「才谷屋ファクトリーのスタッフ時代、サーキット走行イベントに出展した時のことです。ある出展企業のスタッフさんが、率先してサーキットを走っていたんです。それを見て、サーキットを走らない、ヒザも擦れないような人間がレース用パーツを造っても説得力がないと考えたんです。それで、自分でもサーキットを走るようになりました。そうなると、ユーザーさんのコメントが、何を求めてのものか理解できるようになる。そもそも走ることが楽しいですし、すっかりバイクのことが大好きなっていました。好きだからこそ思いつくパーツのアイデアってあるんですよ。それを製品造りに活かしたかったんです」
性能と品質の高さが口コミで広がり、エイトのファイバーパーツの評判は急上昇。以前は、普通二輪クラスからミニバイクが中心だったラインナップも、大型バイクまで拡大した。レース用カウルも高い評価を得ており、全日本や鈴鹿8耐では多くのバイクがエイトのカウルを纏って走っている。
「今は、仕事に充実感がありますね。やっぱり若い頃の自分は、四輪レースで挫折したことで自己肯定感を失っていたんでしょう。自分はダメだと思い込んでいた。この仕事を受け継いで、モノ造りで評価してもらえたことで、少しずつ自信を取り戻せたのだと思います。もっと先を目指したい。バイクのカウルを造るのだったら、やっぱり最高峰を狙いたい。将来的にはモトGPマシンのカウルを手がけたいんです。そのための準備も始めています」
また、後進の育成にも意欲的だ。「自分で造ったパーツを、バイクに着けて走ると最高の気分を味わえる。モノ造りの喜びって、素晴らしいものがありますから。若い人に、同じ喜びを感じてもらいたい。挫折した人、自分はダメだと思い込んでいる人に、頑張れば仕事で充足感を得られることを知って欲しい。
そもそもバイクってスゴく楽しいものじゃないですか? バイクに関わるものごとは楽しい。自分も思い切りバイクを楽しんでいます。サーキットも走るし、ツーリングにも行く。高校生の時に、バイクが楽しいと感じたことは間違っていなかったと、今になって実感しています」
大阪府出身。中学生でカートレースにデビュー、トップドライバーとして活躍した後にフォーミュラに転身。レーサー時代からファイバー職人として才谷屋ファクトリーに勤務。同社の解散後、エイトを設立し事業を継承。社長業と並行し、現在もファイバー職人として腕を振るっている