モノを造るヒトの想い|【Etching Factory】竹見升吾さん
誰もが望んだ職業に就き、思ったままに働けはしない。エッチングファクトリーを率いる竹見升吾さんも、さまざまな事情で家業を継ぐことを強いられたのだという。だからといって、竹見さんが人生を投げ出すようなことはなかった。バイクがあり、レースという大きな目標ががあったからだ。望まぬ仕事、バイクとは無縁の業種から、唯一無二のパーツを生み出した、逆転のストーリー。
PHOTO/D.HAKOZAKI, Etching Factory
TEXT/K.ASAKURA
取材協力/ 富士精密工業
TEL 06-6721-1509
https://www.web-fuji.com/shop/
やむ無く継いだ家業 しかし、ひたすら技術を磨き唯一無二の技術に到達
精緻なデザインに、高い加工精度。それまで金属の網でしかなかった、ラジエターやオイルクーラーのコアガードを、パフォーマンスパーツの新ジャンルとして確立したのがエッチングファクトリーだ。
エッチングファクトリーは、バイクパーツのブランド名であり、製造元の正式な社名は富士精密工業となる。ブランド名にある「エッチング」とは、製品の製造方法に由来するもの。同社の代表を務める竹見升吾さんは、エッチング加工を用いたコアガードの開発者にして、国際ライセンスを所持するレーシングライダー。その竹見さんに、オリジナルパーツ誕生に至る話を聞いた。
「弊社は、元々印刷の版を作る仕事をしていました。紙に印刷する版だけでなく、電気回路の基盤にハンダのペーストを直接印刷する版も作っていました。その版で凹凸を作るのに薬品で金属を溶かすのですが、それがエッチング加工。エッチングファクトリーのコアガードは、その技術を発展させて製造しています」
工業分野をはじめ、様々な世界で活用されているエッチング加工。だが、富士精密工業の製品と同等の精密な加工を実現した企業は他にない。実は同社の加工ノウハウはもちろんのこと、使用している機材も自社製。竹見さんの発明品なのだ。
そう聞いて、エッチング加工一筋の職人的なエンジニアを想像してしまった。実際に、そうではあるのだが、竹見さん自身が望んでのものではないのだという。
「社会に出て、最初に就いた仕事は電気関係のサービスマンでした。電気の基本を学ぶことができましたし、やりがいを感じていました。月に100時間の残業も、望んでやっていたくらいです。ところが、先代社長だった父から『そろそろ手伝ってくれないか』と言われまして……。家業を継ぐつもりもありませんでしたし、親にも納得してもらっていたつもりでした。それが、なんだか丸め込まれてしまって……」
好きな仕事の道を断たれた若き日の竹見さんは、家業に生きがいを見出せず日々を過ごしていたという。そんな中、心の支えとなっていたのがバイクの存在だった。大学4年生の時、免許を取得しライダーデビュー。だが、竹見さん曰く初めのうちは〝いろいろ間違えたライダー〞だったのだそうだ。
「バイク用品店で『なんだ、その格好は!』と怒られまして……。まあ、革ジャンにスラックスという格好でしたから(笑)。『バイクに乗るなら、ブーツくらい履け』と」
そのお店が、当時大阪に店を構えていたライダースブティック。カスタムパーツを自社展開したり、バイク文化をリードする存在だった。そこで薫陶を受けた竹見さんは、徐々にライディングギアを揃え、やがてレーシングスーツも入手。
「革ツナギが手に入ると、やっぱりヒザを擦りたくなるわけです(笑)」
当時、大阪で走り好きのライダーが集まっていた峠に通い詰め、ほどなく負けなしの速さを身につけた。
「オレはフレディ・スペンサーより速いんと違うか? とか、思っていましたね(笑)。で、サーキットに行こうと考えました。峠を攻めるのは、やはり社会に迷惑をかけることが多いから。サーキットで速かったら、褒められるわけですから」
’88年、26歳で鈴鹿サーキットのライセンスを取得し、いよいよレースの世界に足を踏み入れる。
「高速コーナーでインに張り付き、自分は全開で走っているつもりでも、アウトからまくられる。こりゃあ、マジメにやらんとアカンと、練習に取り組んだんですが……」
’80年代後半の日本はバイクブームの真っ最中。サーキットにはレーサーを夢見る若者が溢れていた。
「’90年の鈴鹿4耐は、エントリー数が640チームもあった。自分の予選順位は、タイムで計算すると480位くらいでしたね」
今では考えられない盛り上がりぶりは羨ましい限りだが、エントラントの立場では喜んでいられなかったろう。だが、そんな状況でも速い人は、頭角を現してくるものだ。竹見さんもその一人。’90年の年末、鈴鹿サーキット内のショートコース、南コースで開催されていたコンセッションレースで初の6位入賞を果たした。
「南コースは相当走り込みましたからね。南コースだったらスペンサーより速いんちゃうか? と、思うくらいでした(笑)」
’91年には本コースのレースでもポイントを取り、ジュニアライセンスに昇格。’93年は西日本各地のサーキットを転戦し、表彰台の常連となり、国際ライセンスに昇格した。’94年からは全日本に参戦を開始。鈴鹿8耐にも初参戦を果たした。
「テストで初めてTT-F1のマシンに乗ったら、あっさり2分20秒が切れたんです。当時は20秒を切れるかどうかが、ライダーとしてひとつの指標になっていましたから、悪くなかったと思います」
大排気量プロダクションレーサーでのレースは、竹見さんの走りに合っていた。その後、TT-F1、SB、JSB1000と、トップカテゴリーで長く戦い続けた。中でも鈴鹿8耐での活躍は目覚ましく、ライダーとして最後の参戦となった’16年まで、実に19回決勝を走った。ベストリザルトは’10年の13位、この年のヤマハ・エントラント中、日本人チーム最上位だった。そのチームこそ、自らが立ち上げたチーム・エッチングファクトリーだ。
「この年の8耐は、雨が降ったり止んだりの難しいレースでした。ペースカーも何回か出ましたが、ウチのピットインのタイミングと上手く噛み合ってくれた。チーム・エッチングファクトリーは生粋のプライベーターで、レースのプロは居ません。シロウト集団が、世界選手権である8耐でどこまでやれるか? がテーマ。チーム全員が集中し、それぞれの仕事をこなす。そう言ってチームを鼓舞して得たリザルトでした」
チーム・エッチングファクトリーの設立は’98年。だが、この時点では看板商品であるエッチング加工で作られた自社製品のコアガードは商品化されていない。それ以前からOEMで、エッチング加工を活用したパーツの製造自体は行なっていたのだが〝いつか自社ブランドでパーツを造りたい〞との想いを込めたネーミングだったのだ。
そして’11年、満を持してエッチングファクトリーのブランド展開を開始。精緻なコアガードは他のどこにもない製品であり、バイクカスタム界を席巻した。「コアガードを作ったきっかけは、’90年代の前半にレーサーのメンテナンスをしている時でした。ラジエターやオイルクーラーはフロントタイヤの後方にありますから、石やタイヤカスの跳ね上げで、どうしてもフィンが潰れてしまう。レーサーのラジエターは大きいですから、フィンを修正するのは大変な手間なんです。そこで、ホームセンターで売っている金網を使ってコアガードを作ってみたのですが、8耐のような長丁場のレースを走ると、やっぱりボロボロになってしまう。じゃあ、エッチング加工で造ってみようか、と……」
開発は簡単ではなかった。素材の板厚やメッシュの粗さなど、膨大な数の試作品が造られた。テストライダーは竹見さん自身だ。
「最初のコアガードの開発には、3年以上かかりました。走っては修正、走っては修正の繰り返しでした」
同社の製品は、タイヤからの跳ね上げが多いセンター部はプロテクション性能を重視してメッシュを細かくし、サイド部分は冷却性向上のため粗くしている。そうしたアイデアも、数限りないテストの中から生まれたものだ。
実戦投入されたのは、’97年の鈴鹿8耐。8時間を走ったマシンのラジエターは、まったく傷んだ形跡がなかった。エッチングファクトリーのコアガードは、見事に役割を果たしたのだ。冷却効率を損なわず、高いコア保護性能を発揮するコアガードは、レース界でも好評を得て多くのレーシングチームが採用。モトGPやSBKのワークスマシンにも使われた実績を持つ。竹見さんは、ライダーとして第一線から引いた現在も、チーム・エッチングファクトリーを率いてレースの現場に立つ。
「自分がレースをやって、そこで得た知見やコネクションが製品開発に役立ってくれました。レースをやっていなかったら今の自分はないし、会社もなくなっていたかもしれない。若い頃、大好きな仕事を取り上げられ、半ば無理やり会社を継がされたという気持ちもありました。ですが、レースがあったから仕事を頑張れた。漫然と働くのではなく、やりたいことのためなら頑張れるんです。次の世代に、そのことを伝えたい。だからレースを続けます」
【竹見升吾さん】
1963年生まれ、大阪府出身。富士精密工業 代表取締役にして、国際ライセンスを所持するレーシングライダー。少年時代からスポーツに親しみ、小学校中学校では水泳と器械体操、高校時代は自転車競技部に所属しつつ並行して少林寺拳法にも取り組んだ。大学時代は体育会で、日本拳法部に席を置いた