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優れた対応力を見せたダリル・ビーディ【松屋正蔵が描く、熱狂バイククロニクル】

TEXT&ILLUSTRATION/M.MATSUYA

全日本から世界に飛び出し優れた対応力を見せたダリル・ビーティー

かつて全日本には物凄く速い外国人ライダーがいました。それはそれは速くて、’92年にはGP500クラスの全日本チャンピオンにもなっているのです。その外国人選手はまだ22歳の若者で、オーストラリアからやってきました。その名はダリル・ビーティーといいました。

日本とオーストラリアのレース界は、それ以前から深い縁があったようです。有名なのはヨシムラが発掘したグレーム・クロスビーさんや、モリワキレーシングが発掘したワイン・ガードナーさん、ピーター・ゴダードさん。ヤマハワークスも負けておらず、ケビン・マギーさんにミック・ドゥーハンさんを、全日本や鈴鹿8耐に参戦させ日本人ファンにお披露目してくれました。そして彼らは見事に世界GPでも活躍する選手になったのです!

そんな世界GPにも繋がるオーストラリアのレース出身ライダーは、ホンダ(HRC)にもいました。それが今回の考察対象としたダリル・ビーティーさんなのです。

ビーティーさんが全日本参戦を始めたのは’89年からでした。このシーズンの全日本最終戦、MFJグランプリにスポット参戦したのです。このレース、僕はベストレースだと思っています。世界GP帰りの清水雅広さんと、自身初の全日本チャンピオンがかかった岡田忠之さんとの、記憶に残る大バトルがあったからです。残念ながらビーティーさんは3位表彰台で終わりましたが、レース序盤にはその速さの片鱗を見せていました。

【1995 ~’97 WGP500 SUZUKI RGV-Γ】スズキ時代になると伏せ方が強くなり、それまでのリーンアウトのイメージとは、随分とライディングフォームが変わって来ていました

清水さんVS岡田さんのベストレースのため、当時はイメージが薄くなってしまいましたが、ビーティーさんはその前年の’88年に、19歳の若さでオーストラリア国内選手権のGP250クラスのチャンピオンを獲得しています。その活躍を見たからこそ、HRCは彼にワークスマシンNSR250を貸与し、全日本を走らせたのでした。いきなりHRCのフルサポートとなったわけですから、シンデレラボーイの誕生だったわけです!

それからのビーティーさんは’90〜’91年に全日本のTT-F1クラスを戦いながら、世界GPへのスポット参戦も続けていました。全日本では、速さはピカイチなのですが転倒が目立つ印象で、まだチャンピオンを獲ることはできていませんでした。

そして迎えた’92年。全日本GP500クラスへのフル参戦となりました。これで世界GPへの道筋が見えてきたわけです。このシーズンは、GP帰りで同郷の先輩にあたるケビン・マギーさんとのチャンピオン争いとなり、最終戦の優勝争いに競り勝ち、見事に全日本チャンピオンの奪取に成功し、HRCの期待に応えました。

さらにこのシーズンは、GP序盤戦で負傷したワイン・ガードナーさんの代役として、ロスマンズカラーでGP500クラスに3戦のスポット参戦もしており、3位表彰台に上る活躍を見せたのでした。

’93年には、’92年シーズンを最後に引退をした同郷のガードナーさんと入れ替わり、世界GP500クラスにフル参戦を始めました。安定してはいませんでしたが表彰台を獲れるポジションを走り、ドイツGPで初優勝を果たしています。シリーズランキングも3位となり、その速さは最高峰クラスでも証明されたのでした。

しかし続く’94年シーズンにはホンダを離れることになりました……。ケニー・ロバーツさんが率いるマールボロ・ヤマハ入りしたのですが、シーズンが進むと転倒で大怪我を負い、足の指を飛ばしてしまいます。負傷欠如も影響してランキング13位と低迷してしまいました。

翌’95年シーズンからはラッキーストライク・スズキへの移籍が決まり、ケビン・シュワンツさんのチームメイトとなります。再び速さが戻ったビーティーさんはシーズン2勝を挙げ、シリーズランキングも2位と、さらに好成績を残したのでした。

しかし’96年シーズン直前のテスト中に転倒して頭を強打。そのため4戦のみの出場となり、シリーズランキングも18位に。そして’97年シーズンをもって世界GPから引退となっています。

こちらは全日本を走った当時のイラストとなります。ヘルメットがSHOEI製となってからのカラーリングはドゥーハンさんを彷彿させる、エアブラシの吹き付けで塗られていました

トップを走る、目指す、ライダーは、それに伴い転倒のリスクも高くなる傾向があり、怪我と戦っていかなければならない面も持ち合わせています。ビーティーさんの場合も怪我によって世界チャンピオンには届かなかった、という結末となってしまいました。速さは確かだったので、残念な結果でした。

ここからはビーティーさんのライディング考察と致します。彼が全日本に出てきたのは前述のとおり’89年のMFJグランプリ筑波大会でした。この時はリーンアウトで背筋が伸び、頭の位置が高い事が目立ちました。余裕を持ってマシンをコントロールしているイメージですね。GP500で全日本チャンピオンとなり、世界GPに飛び出してからも、リーンアウトなので頭はセンターにキープ。外足は綺麗にマシンに寄り添い、腰は引き気味で背筋は自然と伸び、頭の位置が高いリラックスした乗り方をしていました。

’94年からヤマハに乗りましたが、このシーズンは不調が続き上位を走ることも無かったので、ライディングのチェックが出来ない感じでした。しかし、’95年からスズキに乗り完全復調するのですが、この時に大きくライディングフォームを変えていたのでした! このシーズン、ビーティーさんはGPキャリア最高となるランキング2位を獲得しました。そのライディングは、頭の位置を思い切り低くし、「それで前が見えるのか?」と疑うくらいカウルに伏せるフォームに変わったのでした。この年に乗ったマシンは、エースライダーであるシュワンツさんのRGV-Γと同型でした。ライディングフォームから考察するとビーティーさんは、腰を引き気味にし、外足をマシンに添えてホールドする乗り方は変えたくはないと考えていたと思われます。

しかしシュワンツさんの乗り方を見れば分かりますが、RGV-Γは前乗りに合ったマシンと思われます。そこでビーティーさんは何とか前乗りに近づけるように、上半身や頭の位置を低くすることで、前乗りと同じ効果を作り出していたと思われます。現にこのシーズンはランキング2位となっていますから、ビーティーさん流の前乗りはシッカリと成績を残しているのでした。

ホンダ、ヤマハ時代と比べると、スズキに移籍したビーティーさんはまったく別人のようにライディングフォームが変わったわけです。そういう対応ができるという意味では、彼も天才ライダーの1人と言えるでしょう。チャンピオンになる条件が整ってさえいれば、その可能性を大いに持っていたライダーだったのだと思います。

始まったばかりの今シーズン、レースファンは一丸となって全日本、モトGPを盛り上げて参りましょう! 何とか時間を取って、お近くのサーキットにレース観戦に行ってみて下さい。それはそれは物凄い世界ですから。あのスピード、あの音、サーキット独特の広大な空気をぜひとも味わって頂きたいのです!

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