【井上ボーリング/井上壮太朗さん】内燃機関業界の革命児が語る未来
原動力がエンジンであるからこそ、バイクは楽しいのかもしれない。だが、環境問題によりエンジンの存続が危ぶまれている。そんなことはさせないと、奮闘を続ける内燃機屋がいる。新発想のサービスや製品を次々と生み出してきた、井上ボーリング代表の井上壮太郎さんが目指すのは、“エンジンの活きる未来”だ。
PHOTO/S.MAYUMI, INOUE BORING TEXT/K.ASAKURA
取材協力/ 井上ボーリング https://www.ibg.co.jp/
井上ボーリングは内燃機のトップランナーだ。シリンダーボーリングなど、内燃機加工の質の高さはもちろん、数々の革命的な技術を生み出してきた。大規模な施設が必要で、バイクメーカーでなければ難しいとされてきたメッキシリンダーを、少量のオーダー生産で実現したICBM。
多気筒2ストロークエンジンの弱点である消耗部品、センターシールをほぼ永久に使用できるレベルまで改良したラビリンスシールなど、その技術力の高さと発想力の豊かさは並ぶものがない。そうした新発想のサービスや製品を生み出してきたアイデアマンが、井上ボーリング代表の井上壮太郎さんだ。
さて、内燃機屋と聞くとボアアップや燃焼室の加工など、マニアックなエンジンチューニングを思い浮かべる人も多いだろう。実際のところ、現代の内燃機屋の業務は、チューニングに関連した作業が多いのが事実だ。だが、日本のモータリーゼーションの勃興期、第二次世界大戦後の時代はそうではなかった。
「当時のエンジンは、1万kmも走れば各部が擦り減ってしまい、車検の度に全バラしてのオーバーホールが必要なレベルだったのです。ですから内燃機屋は、街ごとに必ずある商売でした。それこそ、自動車修理工場が2〜3軒あったら、同じ数だけ内燃機屋があったくらい、一般的な業種でした」
そう語る井上さんは、’55年に新宿で生まれた。生家である当時の井上ボーリングの工場があったのは、現在の伊勢丹新宿店のすぐ近く。新宿駅まで徒歩圏内、時代が変わり現在の新宿とは環境が異なるとはいえ、内燃機屋がいかに生活と密接な関係にあったかがわかる。
「今の新宿と比べれば、のどかな街でしたけどね。小学校の友達には、歌舞伎町に住んでいる子もいたくらいです。まあ、性別もわからないような格好をした人がうろついていたり、当時から怪しい雰囲気はありましたけどね(笑)」
少年時代の井上さんが楽しみにしていたのが、毎週末のドライブ。
「家のクルマがMGで、毎週末に家族でドライブに出かけていました。父は運転、母と姉妹は後部座席。私は助手席を占有していました。誇らしかったですね。外車というだけで、注目を浴びた時代です」
そうした原体験が、井上さんを内燃機の虜にした、というわけではないらしい。
「高校はバイク禁止でしたから、校則を守ってバイクの免許は取りませんでした。二輪と四輪の免許を取ったのは大学3年生の時です。体育会の部活動に所属していたので、その移動手段としては活用しましたけど、クルマやバイクを趣味としていたわけでもありません」
熱中していた部活動は水上スキー。全日本学生選手権のトリック種目の個人成績で1位に輝いた経験もある有力選手だった。部活動を頑張りすぎたせいか、大学は留年。だが、5年生の時にはしっかりと勉強し、卒業にこぎつけた。
「ですが就職先がなくて……。とりあえず働かなくちゃイカンと、仕方なしに家業に入ったんです」
当時の日本はオイルショックの影響で空前の不況下にあり、井上さんもその煽りを食ったわけだ。井上ボーリングを創業したのは、井上さんのお父上。だからといって、二代目の若様として気楽に働ける環境ではなかった。
「その頃の内燃機屋は、斜陽産業でした。’60年代に、ピストンリングにクロムメッキが施されるようになり、エンジンの寿命は飛躍的に伸びました。内燃機屋の仕事は減り、業者数もどんどん減っていました。将来的な成長が見込めない状況で、父もそれを感じていたのでしょう。内心はどうあれ、家業を継げと言われたことはありませんから……」
最初にやった仕事は、NCフライスのオペレーターだった。
「まるきりの素人ですから、経験が必要な職人仕事なんてできません。その点NCならば、プログラミングすれば加工は機械がやってくれる。私にできる仕事は、それくらいしかなかったんです」
NC工作機械のプログラミングは、井上さんの性に合った。
「どうすれば効率の良い加工ができるかを、考えるのは楽しかったですね。ただ当時のデータ入力は、パンチングテープ(紙製のテープに穴を開け、所定の穴の位置で指令を表す記録媒体)で、穴の位置を開け間違うと全てやり直しになるのが辛かったですね(笑)」
その頃、井上ボーリングでは、二輪用、四輪用のさまざまな部品の下請け製造を行っていた。その中で井上さんが手がけた仕事のひとつが、ホンダの2ストロークエンジンの補修用シリンダーだ。市販車はもちろん、RS125/250といったレーサーのシリンダーの仕上げを一手に引き受け、仕事は切れ目なくあった。だが、そこで危機が訪れる。
「’00年前後だったと思います。ある日、ホンダさんに呼ばれて『2ストロークエンジンは無くなります。そのつもりで将来の仕事を考えてください』と言われたんです」
2ストロークエンジンを多く手がけてきた井上ボーリングにとっては死活問題だ。
「生き残るために、内燃機屋の原点に回帰すると決めました。下請け仕事は全て断り、内燃機加工だけに集中することにしたんです。インターネットが拡がりつつあった時代ですし、世界を相手にビジネスができるとも考えたんです」
内燃機屋はプロ相手のBtoBビジネスが中心の業種だが、井上ボーリングは他に先駆けてユーザーとのダイレクトビジネスを展開。そして、自社開発技術であるICBMで、絶大な評価を受けることとなる。このICBMには、井上さんのエンジンへの想いが込められている。
「ICBMは、エンジンの耐久性を高めるための技術です。他のチューニングとの組み合わせで、結果的にパワーアップすることはあり得ますが、あくまで目的はエンジンを長く使うことです。競技であるレースは別ですが、公道で速さを競うことはナンセンスだと考えているからです。そんなことより、エンジンというメカニズムを後世へと伝えるためにできることをしたい。
私は、現代社会はエンジンが作ったと考えています。18世紀末に蒸気機関が発明され、産業革命が起こります。これはエネルギー革命でもありました。人類社会が飛躍的な発展を遂げるわけですが、そのスピードが加速したのが20世紀。20世紀は機械の時代と言われていますが、その主役がエンジンです。移動のためエンジンが使われ、人口爆発を食料の確保増産流通で全て担い、モータースポーツ文化も花開きました。
カーボンニュートラルが叫ばれ、エンジンをなくそうというのが世の流れです。環境に配慮するのは大切なことです。そのためにEV化は有効な手段ですから歓迎します。だからといってエンジンを捨てることはないと思うのです」
井上さんは、想いを形にするために動き出している。そのひとつが水素エンジン、’04年には開発を始めていたというから先見の明がある。
「きっかけは大層なものではないんです。私はトライアルマシンが好きなんです。シンプルで、不要なものを削ぎ落とした造りに美しさを感じるので……。なかでもブルタコのマシンが好きで、古いブルタコをレストアしたことがあります。ようやく組み上がり、嬉しくてある山に走りに出かけたんです。そこで自転車の集団と出会いました。彼らは自分の足の力で登ってきた、対してこちらは旧い2ストロークエンジンで、排気ガスを撒き散らしている。冷たい目で見られている気がして、引け目を感じました。なら、燃やしても空気を汚さない水素を使えば、大手を振って走れると考えたんです」
ベースのエンジンは、慣れ親しんだ2ストロークを選んだ。2ストロークエンジン存続への配慮もあった。長い時間をかけ自力で開発した2ストローク水素エンジンバイクは、走行可能な段階まで到達している。
「現在のエンジンは、水素と一緒に2ストロークエンジンオイルを燃やしているのでゼロエミッションではありません。ですが、製作中の次のエンジンでは、オイルを燃やさない完全なゼロエミッション2ストロークエンジンを実現させます」
刺激的な、あの2ストロークエンジンの走りを、再び味わえる日が来るのかもしれない。もっとも、井上さんはエンジンサプライヤーやバイクメーカーを目指しているわけではない。己の持つ技術と知識、経験を総動員して、エンジン存続の可能性を探っているだけなのだ。
「私はエンジンが好きで、バイクが好きです。バイクは、エンジンが自分の身体の近くにあるところがいい。これほどエンジンを感じられる乗り物はありません。ですから、バイクをずっと楽しむために、エンジンを残したいんです」