Motorcycle Life 日本のモータースポーツを陰で支える優しきアメリカン
日本のモータースポーツを陰で支える優しきアメリカン AFG Motorsport 代表 ジェイソン・フーリントンさん 『縁の下の力持ち』というが、ジェイソン・フーリントンさんは、まさしくそんな人物だ。レースからイベントまで、日本のバイク業界を陰からサポートして支えている立役者なのだ。
Jason R.Fullington アメリカ・オハイオ生まれ。1999年から日本で暮らしはじめ、バイクに深く関わった生活を送る。バイクギアブランド『icon』の輸入販売を手がけるAFGモトスポーツ代表を務めている
チャレンジする人を支え 自らもチャレンジを続ける
ジェイソンさんは日本で暮らす、オハイオ生まれのアメリカ人だ。はじめて来日したのは、所属していた米空軍で横田に配属された1999年のこと。そのころから映画やテレビ、ビデオゲームなどのカーアクションのスタントマンをこなすようになると、それが仕事になった。
「高校生のころに住んでいたノースカロライナでは、友達のお父さんや高校の先生の夫がナスカードライバーだったりと、四輪レースが盛んな街だったんだ。僕もレースをしていたから、スタントマンもできたんだ」
退役後は会社を起ち上げ、クルマのパーツの輸入と輸出を手がけるようにもなった。エクストリームライディングのライダーとしても活動していたが「痛いだけだったよ(笑)」と当時を振り返る。
「箱根や奥多摩へ走りにいったり、バイクナイトに参加するため渋谷とか原宿にもよく行った。スタントをするよりもツーリングや街乗りをしてるほうがおもしろかったよ!」
クルマパーツの代理店業務はその後にバイクへも拡大。アメリカ発祥のイーストコーストスタイルのカスタムを紹介し、パーツを仕入れた。日本ではオールドスクールのムーブメントを起こし、ハヤブサやYZF–R1などにロングスイングアームとファットタイヤを装着したカスタムを広め、第一人者となった。
「海外や日本のバイク雑誌のレポーターもやるようになって、カスタムシーンの紹介だけでなくモトGPのライダーのインタビューもやった。それでコネクションが広がったんだ。ロッシやヘイデン、エドワーズとも顔見知りだよ。彼らと接するとき、日本人は遠慮してしまうことが多いけど、僕は彼らをセレブだとは思わず、同じ人間として見ている。だから彼らも気軽に応じてくれて、いろいろなことを話してくれるんだ」
海外メディアでの仕事ではギャランティを受け取っていたが、日本のメディアではボランティアとして無報酬で活動していたという。
「僕が興味ある人やイベントに関われることだったし、僕にとってすばらしい経験にもなったからね」
自分がしてもらいたいことをほかの人にもしている。それだけのことさ
ジェイソンさんのそんなやさしさは、SSP(サイドスタンドプロジェクト)に参加していることにも表れている。SSPとは、オートレーサーとして活躍中の青木治親さんが代表を務める一般社団法人で、四肢などに障がいを負った人たちがバイクに乗ることをサポートしている。
SSPでは青木三兄弟とともにがんばる人を支援
ジェイソンさんはSSPのスタッフを務め、障がい者がバイクにまたがってから下りるまで、すぐそばで付き添う。乗降では彼らの身体を担いで支え、走行中はその横を全力疾走していく。もちろんこれもボランティアであり、無償の行動だ。
「僕もバイクで事故に遭って大怪我をして、車椅子生活をしていたことがあります。そのとき周りの人たちに支えてもらったからこそリハビリもできて、いまこうして元気に過ごしていられるし、バイクにも乗れる。だから彼らの気持ちもよく分かるんです」
事故現場に居合わせた人は、だれもがジェイソンさんが命を落としたと思ったほどの重傷だったが、奇跡的に一命をとりとめた。しかし復帰までの道のりは容易ではなかった。入院生活は7カ月に及び、形成手術を17回も受けた。それでも医師には再び歩くことはできないと言われたが、2年半のリハビリを不屈の精神で乗り越え、左腕に障がいが残るものの全力疾走できるまでに回復した。
「たくさんの人たちからいっぱい恩をもらいました。その恩と感謝の気持ちは違う人に返していきたいんです。自分がしてもらいたいことを、ほかの人にしてあげる。だれかに親切にすれば、それは自分にも返ってくるものだと思うんです。アメリカではゴールデンルールといって常識のひとつになっています」
ゴールデンルールは黄金律ともいい、キリスト教をはじめユダヤ教やイスラム教、ヒンドゥー教でも教義にある倫理観だ。ジェイソンさんのやさしさの原点は、苦しさと悲しさを味わった少年時代にあるという。
「僕が7歳のとき両親が離婚して、母と暮らしてきました。生活は貧しく、2年ほどはホームレスでした。そのとき母の友人など多くの人たちが、食べ物や衣服を差し出してくれました。そのおかげで貧困から抜け出すことができたし、いま僕はこうしてここにいられるんです」
PPIHCでは井上哲悟さんと新井泰緒さんをサポート
ジェイソンさんのボランティア活動はSSPだけではない。ディーレックスの豊田浩史さんが全日本選手権に挑んだときは、トライアンフや英国大使館とコネクションを作った。井上哲悟さんがパイクスピーク・インターナショル・ヒルクライムに挑んだときは、現地でのハウスレンタルや車両整備のためのパーツ手配、エントリーや車検での通訳など、アメリカ滞在を快適にすごし、レースに集中するための橋渡し役を担った。
ジェイソンさんの行動原理は、本業のアイコン製品販売でも変わらない。ビジネスよりも先にあるのは「優れた製品だからだれかに勧めたい」という気持ちだ。怪我からの復帰後、ジェイソンさんはレース活動を開始。主戦場は筑波サーキットで、19年のMCFAJクラブマンロードレースのスーパーマックスクラスでは、アプリリア・RSV4でシーズン優勝を果たした。
現在はテイスト・オブ・ツクバ参戦を目標にマシンを製作し、体調を整えており、「勝てなくてもいいから楽しみたい」と言う。レースのために筑波サーキットへ通ううち、少年時代をすごしたノースカロライナの雰囲気に似た茨城が好きになったジェイソンさんは、ショップとオフィスをつくば市にかまえ、同市内に住んでいる。もちろんオフィスと自宅の往復はバイクだ。
「バイクのおかげですばらしい人たちとたくさん出会えました。でもバイクはビョーキだね(笑)」