モノを造るヒトの想い|竹中 治さん【Bright Logic】
華美ではない。だが一目見れば、その質感の高さに驚き、感動を覚える。これぞ機能美。それがブライトロジックの造り出すマシンだ。代表を務める竹中 治さんは、ヨシムラ出身の生粋のレースメカニック。そのキャリアとスキルは、何物にも代えがたいライダーにとっての宝だ。
【竹中 治さん】’61年、静岡県磐田市に生まれ、後に沼津に転居。’83年にヨシムラ入社、’94 年まで在籍。全日本、8 耐、デイトナ・スーパーバイクやAMAでもメカニックとして活躍。’94 年にブライトロジックを創業。日本を代表するチューナーのひとりひとり
「当たり前の仕事をしているだけ」その“当たり前”の基準値が異様に高い
その佇まいからして違う。走らせずとも、立ち姿を見ただけで、このバイクは違うと感じる。それが、ブライトロジックの造るバイクだ。カスタムショップは数あれど、誰もが頂点と認める存在。なぜ、これほどの〝作品〞を生み出せるのか?代表の竹中 治さんにルーツを聞き、その秘密を紐解いていきたい。
「最初にバイクに興味を持ったのは中学生の頃です。友達に自転車好きがいて、その延長で彼はバイクも好きでした。遊びに行くと部屋にバイク雑誌たくさんあるような子で、その影響で興味を持った感じですね」
最初にバイクに触れたのも、この頃だ。そのバイク好きの友人宅の庭で、DAXを走らせた。ここでバイクの魅力に取り憑かれ、その後の人生を決めることになった……というわけではないらしい。当時は、もっと夢中なものがあった。小学3年生で始めたサッカーだ。ポジションはライトウイング。かなり優秀な選手で、高校は部活推薦で進学。竹中さんの在学中は果たせなかったというが、後にはサッカー王国静岡の代表として全国大会に出場したこともある強豪校とのこと。
サッカー一色の高校時代を送った竹中さん。けれど、3年生の夏が終われば自動的に引退となるのが学生スポーツだ。卒業後は進学を考えていたので、今度は受験勉強に専念したのかと思えばそうでもない。「3ナイ運動の学校だったんですが、バイクに乗っているクラスメートが多かったんです。もともと興味もありましたし、自分も免許を取ったんです。試験場で一発免許を受けて、4回目くらいで合格したのかな?もちろん学校にはナイショです(笑)」
手に入れたのはスズキのGS400。高校の同級生で、先にバイクに乗っていた若澤さんから譲ってもらったものだった。〝今となっては〞という話ではあるが、初バイクがGSであったことは、将来を示唆していた様に感じなくもない。何しろ、その先の十数年〝GS漬け〞の日々を送ることになるのだから。
「大学に入ったらバイクのレースをやりたいと思っていて、バイクの同好会に入りました。先輩のレースを手伝ったり、自分で走ったり。2年生に上がる時、卒業する先輩がクラブ員の誰かに、その方がやっていたアルバイトを引き継いで欲しいというので、自分が手をあげたんです」
そのバイト先が、ヨシムラだった。配属されたのはカムシャフトの製造部門。2年間、カム研磨を担当した。自分のレースもそこそこに、アルバイトに明け暮れる日々。学業はおろそかになり、3年生の途中には4年間で卒業することが怪しくなった。
「そりゃあ、そうですよ。毎日、朝9時から夜の10時まで、ずっとカムの研磨をしているんですから、授業なんて受けているヒマはない。どうしようかぁと考えていたら、浅川さん(浅川邦夫さん/現アサカワスピード代表。’80年代のヨシムラを支えたメカニック)から『いつまで大学なんか通ってんだ? ウチに来い、オヤジにはオレから話しておくから』って言われたんです」
〝オヤジ〞とは、ヨシムラ創始者の故・吉村秀雄さん。竹中さんに迷いはなかった。
「1982年の8耐。自分はまだ学生アルバイトでしたけど、8耐レーサーの電気系を任せられたんです」
台風が直撃し、6時間に短縮されたことが今も語り種となっているこの年。ヨシムラはG SX1000エンジンをスズキ製フレームに搭載したヨシムラ・テスタロッサ1000Rと、クシタニカラーに塗られたカタナの2台を走らせた。辺りが暗くなり、ヘッドライトが点灯。ストレートを駆け抜けるヨシムラのマシンを見て、先輩の大矢メカが「ライト灯いたじゃん」とつぶやいた。
「その時に、自分のやりたいのはコレだと思ったんです」
8耐はヨシムラが全てを賭け、日本中のバイクファンが注目する一大イベントだ。その場で、自分の仕事が意味を持った瞬間に立ち会ったのだ。若き日の竹中さんにとって、人生を決めるのに十分以上のインパクトを持つ出来事だった。
’83年、大学を中退しヨシムラに入社、レース課に配属される。翌’84年には全日本TT-F1とTT-F3が開幕し、それまで2ストロークエンジンが主役だったレースの世界に、4ストローク化の波が押し寄せる。ヨシムラの時代が訪れたのだ。
「当時、ヨシムラのレース課は、エンジン部門と車体部門に分かれていて、自分は車体部門に所属していました。TT-F1や8耐はオリジナルフレームが当たり前でしたから、浅川さんと一緒にゼロからフレームを造ったりしましたね。森脇護さんにも、いろいろと教わりました。スズキ製アルミフレームの扱い方を学ぶために、スズキの本社に泊まり込んで講習を受けたり。毎レース新しいスペックのフレームになる時代でしたからね。車体のどこを、どのように触ると、走りがこう変わるということをこの頃に身につけました。それこそワッシャー1枚の入れ方にまで気をつかうようになりました」
当時は吉村秀雄さんが、陣頭指揮を取り、全力でレース活動に取り組んでいた時代。竹中さんも薫陶を受けた一人だ。吉村さんとの、こんなエピソードを明かしてくれた。
「TT-F3で、間違ってF1用のイグナイターを取り付けてしまったんです。レブリミットが違うので、全然走らない。さすがに、この時はオヤジさんに殴られました(笑)」
現代ならパワハラだなんだと批判されるだろう出来事だが、当時はそれが当たり前。そうでなければ戦えない〝熱さ〞のある時代でもあった。
「ヨシムラにいた頃は、空冷のGSからGSX、油冷GSX-R、水冷GSX-Rの初期まで関わらせてもらいました。バイクが物凄い勢いで進化した時代です。ヨシムラでは何でもやらせてもらえましたし、アメリカでのレースも経験できた。スズキと一緒に働くことでメーカーの凄さを知り、その技術も学ばせてもらった。本当に良い時代にレースをやらせてもらえたと思っています」
バイクブームとバブル経済が重なった時代。レースにかけられるコストは金額の面でも、人員の面でも現在とは桁が違った。最新の技術を用い、途方もない時間をかけて1台のマシンを仕上げる。だからこそ、当時のレーシングマシンは、今なお輝きを失わない。そして、竹中さんのバイク造りの基準はその頃と何も変わらない。
「良い部品があれば使う。手を抜かずに組み上げる。当たり前の仕事をしている。それだけです」
メカニックなら誰でも心がけていることだろう。だが、ブライトロジックの造るバイクはレベルが違う。造り込みの、セットアップの基準が恐ろしく高い。どんなバイクを扱う時も、竹中さんの目線はワークスマシンを扱う時と同じだ。本物を知っている。だから本物以外は造らない。それがブライトロジックなのだ。