モノを造るヒトの想い|糟野雅治さん【カスノモーターサイクル/アエラ】
すでに世界有数のバイク生産国であった、1960年代の日本。だが、文化やスポーツとしてのバイクは、まだ一般的ではなかった。現代日本のバイクカルチャーの隆盛は、多くの先人達の努力の上にあるものだ。カスノモーターサイクル代表の糟野雅治さんは、そうした先人の一人。レーシングライダーとして、そしてコンストラクターとして、様々なイノベーションを成し遂げてきた人物だ。そのバイク賢人の、破天荒でチャーミングな横顔に迫る。
PHOTO/E.ISHIMURA(PHOTO SPACE
RS),CASUNO MOTORCYCLES
TEXT/K.ASAKURA
取材協力/カスノモーターサイクル
TEL 075-622-0225 http://www.casuno.com/
精密な造形と仕上げ、機能美を具現化したようなモーターサイクルパーツブランド「アエラ」で知られるカスノモーターサイクル。同社の代表を務める糟野雅治さんは、1960 〜1970年代に活躍したレーシングライダーだ。アエラのパーツを見ると、どれほど緻密な人物が造ったものかとの印象を受けるが、糟野さん自身は製品のイメージからかけ離れた、豪快で破天荒なパーソナリティの持ち主だ。
糟野さんが生まれ育ったのは京都の田園地帯。バイクとの出会いは、小学生の頃に遡る。「10歳か11歳かな? 確かトーハツだったなあ。自転車にエンジンをつけた原動機付き自転車ですよ。近所のお兄さんが貸してくれた。田んぼしかない田舎道だからね。子供が走っていても、誰も気にしやしないし、そもそも見ている人もいなかった」
やがて、糟野少年をレースの世界に引き込む体験があった。「1965年の第3回日本グランプリを観て、こりゃあ、凄いことをやっとるなあ……と。四輪のレースを観たこともあったが、バイクレースみたいな衝撃はなかったな」
WGPの日本開催が始まったばかりの頃だ。世界の走りは、糟野さんを魅了。ヤマハのAT90を手に入れ、鈴鹿サーキットを走り始める。
「最初は自走で鈴鹿まで走っていった。仲間のスバル360のリアシートを外して、バイクを分解して積んだこともあった。自分はバイクと一緒に、椅子のないスバルの後ろに座っていたよ。鈴鹿の近くまで自走して、牽引されてサーキット入りしたこともあったな」
レース用のバイクを公道で牽引とは、今では考えられない話だ。そして、翌1966年。17歳でロードレースにデビュー。「2時間の耐久レースだった。途中でシリンダーのスタッドボルトが折れて、片肺みたいになりながら、なんとか完走したな」
糟野さんはすぐにジュニアライセンスに昇格。1967年の全日本選手権では雨のレースということもあり、ファクトリーライダーに混じって3位表彰台に上がるなどの活躍をみせた。1969年にはヤマハ系の名門、プレイメイトレーシングチームの立ち上げに招かれる。
「顔見知りだったシャケやん(河崎裕之さん/元ヤマハファクトリーライダーで、プレイメイトレーシングチームの中心人物の一人。指導者としても多くの実績を残す)が誘ってくれた。けど、好き勝手に自分で決めて動きたい性分だから、この時は断った。後で、やっぱり入れてくれと頭を下げることになるんだが(笑)。どうしてもチャンピオンを取って、ヨーロッパに行きたかった」
国内バイクレースの黎明期、日本のレース界のレベルアップを図るべく取られていた方策のひとつが、チャンピオン獲得者のヨーロッパ視察だ。MFJが費用を負担し、バイクレースの本場ヨーロッパの空気を体感させるというものだ。糟野さんは1970年に全日本ジュニア250㏄クラスのチャンピオンを獲得。1971年、ヨーロッパに旅立つことになる。「視察旅行にかかる費用は、全部出してもらえると思っていたんだが、フタを開けたら飛行機代だけ。持ち出しがかなり多くてまいった(笑)」
それよりも、糟野さんが気に入らなかったのは視察旅行のスケジュール。1カ月の旅程で、この日にこのホテルに泊まって、このレースを観戦などが全部決められていた。
「すべて計画通りというのが嫌な性分だったので、予定表は白紙に戻して、自分で行動を決めました」
幸い、航空券は予定変更可能なものであったし、現地ではオランダのヤマハのレース拠点、ヤマハモーターNVの協力を得ることができた。1969年王者のロドニー・ゴールドさん、125㏄を2度制したケント・アンダーソンさんらに同行し、各地のレースを見て回った。
「フィル・リード(通算7度のWGPチャンピオンを獲得)の奥さんに気に入られてね、なんやかんやと世話を焼いてもらった。マン島TTを観に行った帰りには家に招いてもらい、10日ほども泊まったかな。他にも、いろいろな人に遊びに来いとか、助けてもらって嬉しかったね」
親交を深めたフィル・リードからは、WGPにメカニックとして帯同しないかとのオファーもあった。
「凄いライダーから誘ってもらえたのは嬉しかった。凄く悩んだけど、自分はライダーが本分だからと、丁重にお断りしたよ」
ヨーロッパ視察は、当初の予定を大きく超えて3カ月ほどに及んだ。帰国したのは6月頃、すでに国内レースはシーズンがスタートしていたので、この年は参戦を断念。だが、観戦に訪れた全日本ロードレース最終戦で、とある人物との運命的な再会を果たす。それが、長く本誌を率いた根本健さん。糟野さんは、彼に海外のレース事情を語った。
「ヨーロッパではスポンサーがついてのレース活動が当たり前。マシンにステッカーを貼ったらいくら、グリッドについたらいくら、リザルト次第でいくらとギャランティーが出る。と話したら、根本が『それを日本でもやろう』と言い出した」
2人は日本初のプライベートレーシングチームといわれる「フライングドルフィン」を結成した。それまでも自費でレースを行うエントラントは存在した。当然、レースにかかるコストは全て自分持ち。そこにヨーロッパ流のレース運営を持ち込んだのは画期的だった。また、賞金レースの開催にも尽力。フライングドルフィンの活動は、それまで〝多大な資金が必要な遊び〞だった国内バイクレースを、〝プロフェッショナルの競技〞へと進化させたのだ。
糟野さんはヤマハとのファクトリー契約(当時は主に開発などに携わり、レース出場は年1回)を断って、自由にレースできる営業契約(マシンなどを提供)を結び、ワークスマシンでのレース活動も行うようになった。当時、4メーカー全てからオファーがあったというから、ライダーとしての実力がうかがい知れる。
「契約に縛られるのがイヤでね、特にファクトリーは決め事が多いから。でも、ヤマハは縛りが緩かったので、これならいいなと」
同時期に人生の転機が訪れる。「結婚の話が出てきて、それなら正業をもたなアカン……と。すぐに始められる商売を考えたら、喫茶店かバイク屋しか思いつかなかった。バイクで食えるとも考えていなかったけど、ヤマハには伝手があったしバイク屋なら始めやすいかと思って」
1974年、カスノモーターサイクルを設立。ショップの経営と並行して、レース活動も続けていた。
「チームの福田照男がWGPに行くようになった頃、レースで使うパーツを造るために、工作機械を入れた。せっかく機械があるのだから、パーツを造って売ることにした」
それが後のアエラへと繋がる。糟野さんは先頭に立ってパーツ開発に取り組んだ。ちなみにアエラというブランド名は、糟野さんによる造語だ。関西弁で「大変」や「疲れた」を意味する「エラい」が語源となっているという。
「〝あ〜、エラい〞とよく言っていたから、イタリア語っぽいスペルを当てたのがAELLA。(笑)」
〝エラい〞が口癖になるくらい、パーツ開発に力を入れたわけだ。
「ステップやハンドルの位置決めとか、全部自分で決定した。自分で言うのもなんやけど、造り込みの違いはモノを見てもらえば分かると思う。機能面がしっかりしているはもちろん、強度や剛性が足りないなんてあり得ない。飾り立てるのは好みじゃないから、狙っているのは機能美。わかってくれる人は、認めてくれているはず」
アエラのパーツは、その品質と性能が評価され、いまや世界中に輸出されている。これからは、どう展開していくのだろうか?
「プランなんか、なにもないよ。好き勝手に行き当たりばったりで、ここまでやってきた。でも、今より良くしようとは、常に考えている。ショップとして提供するサービスも、従業員の働く環境もね。自分はバイクとレースに育ててもらった人間。バイクの世界に恩返ししたい。次の世代を育てたいという思いは強い」
取材の最後に、何か言い残したことはないかと聞いた。
「特にないなあ。あ、ひとつあったわ。カスノモーターサイクルを始めてから、ずっと家内に支えてもらってきた。違うな、ウチを経営してきたのは家内だよ。家内には常に感謝を忘れないようにしているよ(笑)」
そう言う糟野さんの笑顔は、なんともチャーミングで、人を惹きつける。アエラが世界ブランドに成長した秘密は、家庭円満にあったとは。だが、それこそ糟野さんらしい。
【糟野雅治さん】
1949年、京都府出身。17歳でバイクレースにデビューし長く国内のトップライダーとして活躍。カスタムパーツブランドAELLAを擁するカスノモーターサイクル、DUCATIKYOTO、Motorrad CASUNO代表を務める