【UNICORN JAPAN|池田 隆】モノを造るヒトの想い The Constructor
日本の、いや世界のバイク史に燦然たる輝きを残す名車、“KATANA”ことスズキGSX1100S。そのKATANAをこよなく愛し、40年もの年月を共に過ごしてきた、ユニコーンジャパン代表の池田 隆さん。数々のカスタマイズで世にその名を知らしめ、オリジナルの設計者が“これはKATANA”と認めるコンプリートを製作。レストアやパーツのリプロダクションにも取り組んできた。ことKATANAに関しては、知らないこと解らないことは何一つない。そんな賢人の、過去と未来を訊ねてみた。
PHOTO/A.SEKINO,UNICORN JAPAN
TEXT/K.ASAKURA
取材協力/ユニコーンジャパン
TEL 045-786-0972
https://unicornjapan.com/
衝撃の出会いから40年、1台のマシンを愛し続ける「KATANAの守り人」
どうやって動くのかが気になり、オモチャを分解してしまうのは、機械好きの子供にはよくある話。たいていはバラバラになったオモチャを前に、途方に暮れるまでがセットのエピソードだが、なかには違う人もいるようだ。
「元通りに直せていました。より複雑な構造を求めて、オモチャに限らす色々な機械を分解しましたね」
そう語るのはスズキの名車・カタナのスペシャリストとして知られる、ユニコーンジャパン代表の池田隆さん。やはり後のエンジニアは違う。その池田さんが、機械と同じくらい好きだったのが乗り物。子供の乗り物といえば自転車だ。
「自転車は好きでしたね。走るだけでなく、整備も自分でやりました」
10歳になる前に、自力で自転車を全バラ。オーバーホールまでこなしていたというから恐れ入る。機械好きは加熱する一方で、小学5年生の時に、バイクショップでのアルバイトを始めたというではないか。
「バイクや自転車の修理が、面白くて仕方ありませんでしたね。自分にはこの道しかない、将来はバイク屋さんになるんだと決めました」
機械好きの少年は、当然のようにバイクに出会い、強く惹かれた。
「兄がバイクに乗っていて、後ろに乗ったのが初めてのバイク経験でした。自分で運転した時には〝最高〞の一言でしたね」
当時から、好きなバイクメーカーはスズキ。池田さんは兵庫県明石市の出身、言わずと知れたカワサキのお膝元だ。カワサキ党に育つのが自然にも思えるが?
「そうですよね、明石生まれというと驚かれます(笑)。ただ、昔からスズキの乗り味が好きだったんです。スズキの造るエンジンは、全般的にトルクが太い。回せば速く、回さず流して走っても楽しい。そこが、他とは違う魅力なのだと思います。そこに惹かれました」
高校卒業後はスズキに入社。将来バイクショップを開くため、スキル獲得を目的に選んだ職場だった。そして入社してほどなく、運命の一台と出会う。オリジナルのカタナ、GSX1100Sが’80年のケルンショーで発表されたのだ。
「一目惚れです。カタナは、どのアングルから見てもデザインが破綻しない。どこから見ても美しい。もとから乗り味が良いスズキのバイクが、最高のデザインを手に入れたわけで、これは惚れないわけがありません」
当時、国内で市販されていた750カタナは、悪名高い〝耕運機ハンドル〞をはじめ、多くの点でオリジナルとは違っていた。違法改造は好きではないし、メーカーの人間として許されない。1100カタナは入手困難の輸出専用車ではあったが、手を尽くして逆輸入。オーダーしてから1年以上の時間がかかった。
「どこに乗っていっても、カタナは注目の的でした。アイドルと結婚したような気分でしたね(笑)」
23歳で独立し、バイクショップ「神戸ユニコーン」を開業。普通のバイクショップとして開店したのだが、ほどなく〝ユニコーンはカタナに強い〞と噂になっていく。
「カタナ中心のつもりはなかったんですが、自分がカタナ好きですし、自分が欲しいパーツを造ったりしていたら、徐々に〝カタナの店〞という感じになっていきましたね」
〝ユニコーンの造るカタナは、速くて壊れない〞と評判になり、オリジナルパーツも人気を博した。なかでも、人気だったのが足まわりキット。GSX-Rの前後18インチホイールを、カタナにコンバートするキットだ。似たようなカスタマイズを手がけるショップは他にもあったが、ユニコーンのキットは走りの良さで、高い評価を得ていた。
「カタナのアクスルシャフトは細く、ホイール変更でタイヤをハイグリップ化させると無理が出る。ウチのキットは、ホイールを装着可能にしただけではなく、アクスルシャフトもオリジナル設計の太くて剛性の高い物に換えたキットでした」
バイクに関する造詣の深さが違ったわけだ。池田さんならではのノウハウが込められたパーツは飛ぶように売れた。順風満帆の日々、だが思いもしない災厄に見舞われる。’95年1月17日未明、阪神淡路大震災が発生した。
「店はメチャクチャ。無事なバイクはありませんでしたね……」
ダメージは深刻、ほぼ1年間まともに営業できなかったという。
「まず、入庫していて傷ついたバイクを、元通りに修理してお返ししなければなりません。納車時に、涙ぐまれている方もいましたね……」
営業的にも大きな損害を受けたが、この時にユニコーンを救ったのが足まわりキットの存在。震災後も注文が途切れることはなかった。
「普通であれば潰れていたと思います。オリジナルパーツを造っていたから、今があるようなものです」
そして、’96年に店舗を神奈川県横浜市に移転した。
「震災前から考えていたことでした。神戸に居てもユーザーの5〜6割は関東、3割が関西、残りがその他の地域という具合。広範囲に適切なサービスを提供するため、拠点を関東に置くべきと考えたんです」
そうする中、新しい展開を迎えた。
「スズキからコンセプトモデルの製作依頼があったんです。次世代のカタナをプレゼンテーションするためのものとのことでした」
ベースマシンはイナズマ1200。池田さんの製作したコンセプトモデルは極めて完成度が高く、関係者は絶賛。だが、残念なことに市販化には至らなかった。
「なら、ウチで作ろうかと」
同社のコンプリートマシン、カタナ1200はこうして’99年に誕生した。この車両は大ヒットし、生産台数は350台を数える。また、GSX1400をベースに作られたカタナ1400も、150台生産された(両車とも生産終了)。
池田さんが生み出した2台のコンプリートマシンが、単なる〝ルックモデル〞に終わらなかったのには理由がある。
「1100カタナを、現代の技術でスポーツバイクとしてリメイクしたら、どうあるべきか? がコンセプトでした。安全性を損なわず走りを楽しめて、バイクとしてしっかり成立している。その上で、どこから見ても〝カタナ〞である形に仕上げたつもりです」
〝形〞だけでなく〝概念〞としての〝カタナ〞を再現したとでも言うべきか。それが、カタナ1200とカタナ1400なのだ。
「オリジナルのカタナは生産が終了しています。いくら努力してもいずれは消えてしまう。カタナという存在を存続させるための手段のひとつが、カタナ1200と1400でした。また、オリジナルのカタナを乗り続けてもらえるように、レストアとファインチューニングを中心としたメニューも整えています」
コンプリート車制作で多忙になったため、’07年に社名をユニコーンジャパンへと改め、社屋も拡張。〝カタナならユニコーン〞との評価は確固たるものとなり、膨大な数のカスタムを手がけた。
ユニコーンジャパンでは、カタナの部品を大量にストックし、純正品が欠品した部品に関しては、リプロダクションも手がけている。池田さんを頼り、多くのカタナファンが訪れる。だが、1台のマシンを仕上げるためには長い時間が必要で、年単位での待ちが発生している。しかも、受注を絞る方針であるという。
「自分の年齢を考えると、残り時間でどれだけのカタナに関われて、どこまで責任を持った仕事ができるかが見えてきます。最後まで責任を持てない仕事は請けられません。永続的にカタナを維持できるように、後進を育てろとの意見もいただきますし、理解もできる。ですが、引き継げる技術と、引き継げない技術があります。誰かに〝私自身になれ〞と強いるのはおかしな話ですし、そもそも不可能。私が手がけた仕事は、私が完結させる。それが、私の仕事に対する責任の取り方です」
池田さんは現在62歳、残された時間とキャパシティはそう多くはないと考えている。人もバイクも、いつかは終わりを迎える。それは必然のことだが、このまま終活に入ってしまうのは、あまりに寂しい。そう伝えると、池田さんは笑顔でこう答えた。
「今、カタナのテーマパークのような施設を作っているんです。ファクトリーとミュージアムを備え、レストランや宿泊施設なども構想しています。カタナを愛する人が、気軽に訪れて、楽しい時間を過ごせる場所にしたい。土地は確保済みで、パワーショベルを動かし自分の手で造成からやっています。道のりは遠いですが、完成形は見えています。期待してください」
池田さんとカタナのストーリーは、まだまだ終わらない。終わるはずがない。これほどカタナを愛した人はいないのだから。物語の新章に、期待せざるを得ないではないか。