イラストレーター松屋正蔵が描く、熱狂バイククロニクル|岡田忠之
岡田忠之という選手は実に不思議な選手で、強烈に記憶に残る凄いレースを多く見せてくれたライダーでした。僕の観戦歴でベストレースと呼べるものが、いくつも入っています。
しかも岡田さんは世界GPのGP500クラスで、日本人最多となる4勝を記録しています。日本人ライダーの中で一番速いライダーと言っても良いのかも知れません。
88年の全日本の最終戦GP250クラス。世界GP凱旋レースだった清水雅広さんとのテールトゥノーズでの息詰まる展開は、最終ラップの最終コーナーで決着をつけ、GPライダーを下したのでした。
岡田さんも筑波サーキット育ちのライダーではありましたが、前年度の清水さんの速さはこの筑波では抜群で、1周で1秒の差をつけて走っていました。その筑波マイスターの清水さんに競り勝った事は驚きにも値しました。
92年、全日本の中盤戦となる第6戦鈴鹿での原田哲也さんとのサイドバイサイドのバトルは、同着優勝という信じられない結果となりました。当時も1000分の1秒の計測はされていましたから、「えっえっえっ、そんな事あるの!」と、レースファンは大騒ぎになりました。現在でもこのレースのDVDが販売されているくらいで、珍しい結果のレースでありました。
チェッカーを受けた岡田さんも原田さんも、どちらが勝ったのかがハッキリしない状態でした。ただ表彰式のインタビューでは、岡田さんも原田さんも同着優勝に満足出来ていないのが、画面からも充分に伝わりました。さらに面白かったのが、1000分の1秒まで息が合ってしまったお二人でしたから、ウイニングラップ中に振り向いたり、手を振ったりするシーンが見事なまでにリンクしていたのです。印象的であり面白くもありました。
そして世界GPへと旅立った岡田さんは、さらに強烈に脳裏に残る凄いレースをする事となります。93年から世界GP250クラスにフル参戦をしていた岡田さんは、3シーズンを経て、96年からはGP500クラスに参戦することになりました。初年度こそホンダが開発中だったV型2気筒マシン、NSR500Vの開発を兼ねての参戦となりましたが、97年からはホンダのエースマシンである4気筒のNSR500に乗ることになりました。
このレースまで11連勝中だったドゥーハンさんにとっても、この敗戦はかなり意味が深かったようで、クールダウンラップでは岡田さんに対して、痛い〝指サイン〞を示したようでした。
岡田さんが残してきた、強烈に印象に残る数々のレースは見応え満点です。ぜひ読者の皆さまもDVDや、衛星放送チャンネルの日テレジータスなどで、過去のレースの放送から観て頂きたいと思います。「ドキが胸胸」しますから!(これ矢口高雄先生のギャグでした!)
岡田さんのライディングは、ご本人があるインタビューで言われていますが「マシンのセンターに位置して、ロスが無くて疲れない」乗り方をされていました。リーンウィズと言われる方もいましたが、よく観察すると意外とシッカリとハングオフで乗られていたのが分かります。
半尻をオフセットさせ、イン側のヒザを控えめに路面に向けて出していました。元々、腰を引き気味で乗られていたので、外足は綺麗にマシンに沿っていました。その引き気味の腰の影響か、イン側のヒザが開く角度も大人しく見えていたのが、リーンウィズと呼ばれた理由かも知れません。
さらに岡田さんのライディングを観察していくと、気付く事があります。高速コーナーでは若干腰を前寄りに位置させていて、インフィールド区間の中低速コーナーでは腰を引き気味している感じでした。
当時は、250㏄までは腰の左右の動きを考えれば良いと言われていて、対して500㏄となれば左右の動きに加え、前後の動きも出来ないとまともに走らない……などとも言われていました。
そういう意味では、岡田さんは250㏄時代から、前後左右の身体の動きを意識していたからこそ、500㏄で日本人最多勝利をその手に出来たのだと思いますね。