【熱狂バイククロニクル|ドミニク・サロン】チャンピオンまであと一歩。独特なライディングスタイル
TEXT&ILLUSTRATION/M.MATSUYA
GP250クラスで世界チャンピオンとなっていたクリスチャン・サロンさんの弟、ドミニク・サロンさんが世界GPにフル参戦を始めたのは’85年シーズンからでした。お兄さんの方はヤマハ系列からの参戦でしたが、今回主役のドミニクさんは、何とホンダ系列からのフル参戦でした。兄弟でライバルメーカーであるホンダとヤマハからの参戦は、当時の僕には不思議に思え、強烈に記憶に残っています。
この兄弟の不思議なところは他にもあって、GPの歴史の中でも非常に印象的なクラッシュシーンを見せているところなのです。
クリスチャン・サロンさんは’85年、雨の中のオランダGPで、そのシーズンに2回目の世界チャンピオンを獲るフレディ・スペンサーさんを巻き込んでクラッシュしたのです。スペンサーさんもクリスチャンさんも怪我が無く、無事で済んだのが幸いでした。
ドミニク・サロンさんは’88 年、これもまた不思議な事に、オランダGPでのクラッシュでした(イラストにしております)。最終ラップ、最終シケインの進入で、このシーズンのチャンピオン争いをしていたアルフォンソ・ポンスさんのインを無理に刺したのです。そして2台ともアウト側のサンドにコースアウトするという、衝撃的なクラッシュを世界中のレースファンに見せる事となってしまいました。このクラッシュでも幸いなことに、2人とも無事でした。
この2つのクラッシュは今でも僕の記憶に強く残るシーンとなっています。世界GPとサロン兄弟の面白い繋がりのお話しでした。
さてさて、ドミニク・サロンさんの戦歴となりますが、世界GPフル参戦は’85年からで、RS250でのエントリーでした。’86年からはNSR250が供給され、当時騒がれた「NSR軍団」の1人となりました。いよいよ世界チャンピオンに手が届くところまで来たわけですね。その後’88年まで、GP250クラスで走りました。
’89年からはエルフチームからGP500クラスにステップアップ。そして’91〜’92年はヤマハに移籍。これを最後に世界GPからは引退されています。結局、世界チャンピオンには手が届きませんでしたが、ドミニク・サロンさんは記憶に残るライダーでした! ドミニク・サロンさんでさらに強く記憶に残っていのは、’86年の革ツナギのデザインでした。
’85年からGPに参入したロスマンズの基本カラーリングは、フレディ・スペンサーさんのタイプの物でした(イラストにしています)。
一方ドミニクさんと、’85年の片山敬済さんのデザインは、スペンサーさんの物とはまた違う、白基調のカッコ良いデザインとなっていたのです。青が基本だったロスマンズデザインの中で、異例だったのが片山敬済さんとドミニク・サロンさんのデザインだったというわけです!
ついでに、僕の記憶の中にあった、しげの秀一さん著『バリバリ伝説』に出てきた、ロスマンズホンダのライダーであるカルロス・サンダー選手の革ツナギデザインもイラストにしておきますね! こちらも白基調でとてもカッコ良い感じに仕上がっていました。
ここからはドミニク・サロンさんのライディングについて考察いたします。彼は実にオーソドックスでありながら、リーンアウトにも見えるフォームでした。
上半身と頭はマシンセンターに位置させていたので、リーンアウトにも見えました。そして特徴的だったのが、外足ステップの使い方でした。ステップにはしっかりと土踏まず部分を載せ、体重を上手く外足ステップに載せていました。
面白いのは、足首を直角に固めながら、つま先が外側に向いているのです。このつま先がピョコン! と飛び出した感じが、彼の走りを象徴していました。
ただ、こうした外足使いをするライダーは、スペンサーさん、ガードナーさん、シュワンツさん、レイニーさんなどなど、リアタイヤの滑りをアクセルワークで上手くコントロールする、大排気量マシンでのライティングが得意なタイプのライダーが多かったのです。
しかしドミニクさんの場合は、500㏄よりも2 50㏄との相性が良かった印象が残っています。乗り方は500㏄風でありながら、戦績的には250㏄で好成績となっていたわけです。ここがドミニク・サロンさんの面白いところですね。