【ロリス・カピロッシ】パドックから見たコンチネンタルサーカス:31を追いかけて
レース撮影歴約40年の折原弘之が、パドックで実際に見聞きした四方山話や、取材現場でしか知ることのできない裏話をご紹介。
PHOTO & TEXT/H.ORIHARA
13歳の少年の目の前で展開していたのは、信じがたいレースだった。スタートで出遅れ、ほぼ最後尾まで落ちたはずの赤と白のマシンが、猛烈な勢いで追い上げを見せている。少年はそのマシンから、目を離すことができずにいた。
15位、10位、5位――。どんどんポジションを上げていく。世界でも指折りのトップライダー達が、集まるグランプリでだ。並み居るライダー達を、信じられないほど鮮やかにごぼう抜きしていく。衝撃的なレースに、少年は興奮せずにいられない。金網に指を食い込ませ、そのマシンを必死に目で追う。大歓声を浴びながらトップに立った時、少年の興奮は最高潮に達した。
’86年、イタリア・ミザノサーキットで行われていた最終戦サンマリノGPで、誰よりも早くチェッカーフラッグを受けたヤマハYZR250は、ゼッケン31を付けていた。表彰台の頂点には日の丸が掲げられ、厳かに君が代が流れた。月桂冠をかぶり、笑顔で手を振っていたのは平忠彦だった。
ゼッケン31の神がかった走りに憧れたイタリア人の少年は、グランプリの舞台をめざした。そしてわずか4年後の’90年、125㏄クラスでグランプリデビューを果たす。すると参戦初年度にして、チャンピオンをもぎ取った。17歳と165日での栄冠は、グランプリ史上最年少である。この記録は、今も破られていない。
あまりに鮮やかなデビューを飾った少年は、翌年にも続けてチャンピオンを獲得してみせた。2連覇の達成は、イタリア人少年ロリス・カピロッシの才能が本物であることを示していた。
’92年、250㏄クラスにステップアップしたカピロッシは、プライベータースペックのホンダRS250Rで苦戦し、ランキングは12位に終わった。ファクトリー仕様のホンダNSR250を獲得した’93年、カピロッシはめざましい速さを見せ、2クラスめの王座へ駆け上ろうとしていた。
だが、そこに立ちはだかったのは、極東の島国から乗り込んできた23歳の若者だ。ヤマハTZ250Mで初めて走るサーキットを次々に攻略し、カピロッシの2クラス制覇を阻もうとしていた。原田哲也である。
250㏄クラス2年目のカピロッシに肉薄する、デビューイヤーの原田。チャンピオン争いは、スペイン・ハラマサーキットでの最終戦までもつれ込んだ。ポイント上は、カピロッシが圧倒的に有利だ。優勝が絶対条件の原田に対し、カピロッシは3位に入ればチャンピオン獲得だ。その二人が決勝レースで3位争いを演じていた最中に、まさかの事態が起きた。原田にパスされた焦りからか、カピロッシがコースアウトを喫したのだ。かろうじてコースに復帰したものの、5位に転落するカピロッシ。だが、原田がチャンピオンを獲得するには、優勝しなければならない。鬼神の走りで、ロリス・レジアーニを、そしてマックス・ビアッジを抜き去った。真っ先にチェッカーフラッグを受けたヤマハTZ250Mは、ゼッケン31を付けていた。
ゼッケン31・ヤマハ・YZR250を駆る平に憧れ、ゼッケン31・ヤマハ・TZ250Mを駆る原田に敗れたカピロッシ。だがこの物語はここでは終わらない。5年後の’98年に二人の運命は、再び交錯することとなる。
’98年、アプリリアのワークスライダーとして、チームメイトとなったカピロッシと原田。この2台にヴァレンティーノ・ロッシを加えた3人に、アプリリアRS250が渡された。それでもチャンピオン争いは、因縁の二人を中心に進み、最終戦アルゼンチンGPを迎える。
テクニカルなオスカル・ガルベスサーキットを、うまく攻めるカピロッシは終始レースをリードする。だがロッシと原田も、離されることなく、もつれるように最終ラップに突入する。まずはロッシがカピロッシをかわし、レースリーダーとなる。その直後に、原田もカピロッシをかわしチャンピオンに手を掛ける。その後、十分なアドバンテージを保って最終コーナー手前のレフトハンダーに侵入。誰もが原田のチャンピオンを疑わなかった。たった一人のライダーを除いて。
タイトル奪取に対する異常な執念なのか、同じライダーに2度は負けたくないという気持ちがそうさせたのか。明らかなオーバースピードで突っ込んでいくカピロッシの眼前に、赤地に白でペイントされたゼッケン31が異様な速さで近づいていく。接触された原田は転倒し、カピロッシはチェッカーを受けワールドチャンプとなった。
ここでひとまず、31を追いかけ続けたカピロッシの物語は終止符を打つこととなる。14歳の時に見たミサノを快走するYZRに、追いつくことができたのか。まだ遠く及ばないと感じたのか。彼の胸中を知る術はない。