ライパのインストラクターってどんな人? プロライダー高田速人が考える安全とは?
世界を知るレーシングライダーが何より大切にするのは“安全” プロフェッショナルライダー 高田速人さん 現役のレーシングライダーとして活躍しながらインストラクターやアドバイザー活動を行う高田速人さん 自らサーキット走行会や練習会を主催してきた理由は多くの人にアクシデントを回避できる技術を身につけて欲しいから。
人生の向かう先を決めた 幼少期のバイクとの出会い
ある晴れた冬の週末、筑波サーキットに高田速人さんの姿があった。高田さんは鈴鹿8耐や世界耐久選手権で多くの実績を持つレーシングライダー。ライディングパーティでもインストラクターを務めているので、参加者にはお馴染みの存在だ。
この日の高田さんは、筑波でスポーツ走行の参加者向けのサーキットアドバイザーを務めていた。サーキットアドバイザーの役割は、レース開催日やスポーツ走行開催日に、参加者のケアを行うというもの。その業務は明確には定義されておらず、ライディングのアドバイスだけでなく、マシンのセッティングやレースの進め方についてのレクチャー、時には人生相談すら受けることがある。
とにかく、サーキットを走る人が、楽しく安全にバイクライフを送れるようにと設けられたポストなのだ。 はっきりした業務内容が決まっていないため、アドバイザーによって仕事のやり方は様々。高田さんの場合は、参加者に積極的に声をかけていくスタイルだ。端から見ると、過保護にも感じるほどに。
「走りを見ていると、危ない人は分かります。だから事故が起きる前に声をかけるようにしています。バイクで人が傷つくのはイヤなんです」
こうした高田さんの考え方は、そ のバイク人生のルーツにあるという。初めてバイクに触れたのは3歳の時。だが、レーシングライダーの幼少期にありがちな、バイクレース父子鷹という展開ではない。
「親戚が買ったものの、邪魔になったから持って行って……という感じで、父親がポケバイをもらってきたんです。不動状態だったんですけど、機械いじりとかが好きなオヤジだったので、DIYで修理できた。それで、直ったから乗ってみるか? って。どこで乗ったかも覚えていませんね。多分、近所の河原とかだと思うんですけど……。
まず兄が乗って。兄は小学3年生くらいだったから、スルーっと走れた。で、次が自分。もちろん乗り方なんてサッパリわからない。なにせ3歳ですから。オヤジがテールカウルを後ろから支えていた状態でいきなり全開(笑)。
ビャーッと走っていっちゃったもので、オヤジは随分と焦ったみたいです。その後、どう停まったかとかも記憶にないんです。でも、バイクが加速していく感覚が、もの凄い衝撃でした。何これ凄い、超面白い! って感じたことだけはハッキリ覚えています」
そんな衝撃的な初体験を経て、すっかりバイクに魅せられてしまった高田少年だったが、元の持ち主の 「やっぱり返して」の一言で、ポケバイとは早々にお別れ。だが、バイクに取り憑かれた幼児の勢いは止まらない。
同じくバイクにハマったお兄さんと二人で「バイクに乗りたい!」と猛アピール。根負けしたお父さんが解体屋で不動車のスーパーカブを購入、家族でDIY修理を楽しんだりしていた。その後も、何かとバイクが身の回りにある生活を送っていたが、小学校5年生の時に高田さんは、初めての愛車を手に入れる。
「スズキのGAGを買ってもらったんです。でも、免許もないしサーキットしか走らせる場所がない。熱心にレースをさせようという家庭ではなかったので、年に1回か2回、親の気が向いた時に連れて行ってもえるだけでした。もっと乗りたいのになあって思いましたね……」
そして中学生になった高田少年。背も伸び、体力もついた。けれど、まだ免許は取れない。でも、バイクには乗りたい。では、どうするか? 「サーキットまで、バイクを押して行くことにしました。仕方なかったんですよ、免許が無いんですから」
そう言って笑う高田さんなのだが、実はコレが尋常ではない。通っていたのは埼玉県のサーキット秋ヶ瀬。当時、高田さんの実家があったのは東京の板橋区で、その距離は軽く15㎞はある。いくら、小さなGAGとはいえ、その距離を押すとは……。
「片道で3時間かかりました。最初のうちは、ライディングギアをバイクに積んだ状態で押していましたけど、そのうちメンドくさくなっちゃって。家から、革ツナギを着たまま出かけるようになりました。(笑)」革ツナギを着て、15㎞バイクを押す。どんな苦行かと思われるが、そうまでしてもバイクに乗りたかったのだ。その想いの強さに圧倒される。
ミニバイクレースにも参戦するようになったが、当時は2ストローク全盛期。4ストロークでホビーバイクとしての側面が強いGAGは遅かった。これでは勝てないと考えた高田少年。聞けば、ボアアップすれば速くなるらしいという情報を聞きつけ、なんとかパーツは入手した。
「とりあえず、自分でエンジンを組んでみたんです。でも、キットには取説もないし、知識もない。案の定、エンジンがかかりません。それでも、 とにかくキックをし続けていたら、変なところに火がついて、バイクが燃えちゃいました(笑)」
翌日、学校に行ったら、生活指導の先生に呼び出された。「バイクに乗っていることは先生も知っていたし、法律違反したわけでもない。なんだろう?って思ったら 『その髪、パーマは校則違反だ!』 って。バイクが燃えた時、前髪が焦げてたんです。そう言ったら、先生は爆笑してましたけど(笑)」
まるでマンガだ。これぞ、青春。 バイクを中心にして、仲間の輪も広がった。レーシングライダーを夢見る少年たちは、時に競い、時に励ましあい。未来だけを見ていた。だが、ある日。高田さんは、その後の人生を左右する事態に直面する。仲間が、レース中の事故で亡くなったのだ。
「お葬式に行ったら、親族の方に言われたんです『お前らが殺したのかっ!』って。自分は、そのレースに出ていませんでしたが、そうかもしれないと思ったんです。自分たちとの繋がりがなければ、彼はレースに出ていなかったのかもしれませんから。
それで、少しバイクから離れた時期もあったんです。でも、社会に出てこれからどう生きていくかを考えた時、やっぱりバイクと近い場所に居たいと思いました」
上手く安全に走る技術を身につけて欲しい それがアクシデントを無くすと信じるから
そうして、高田さんはサーキットに戻った。ロードレースにデビューすると、メキメキと頭角を現し、96年には鈴鹿4耐でクラス優勝。翌96年にはGP250クラスで好成績を納め国際ライセンスに昇格。全日本選手権や鈴鹿8耐に度々参戦した。
レース活動を休止していた時期には、ホンダドリーム店に入社。店長を務め、サーキット走行会や練習会を企画。自らインストラクターをこなし「走る店長」として話題にもなった。もう一度、本気でレースに取り組みたいと独立し、バイクのタイヤとメンテナンスのプロショップ「8810R」を立ち上げて、レースを再開。鈴鹿8耐を活動の軸に置き、世界耐久選手権にフル参戦も果たした。
レース活動にショップの運営、イ ンストラクターとしてもあちこちから声がかかる忙しい日々。それでも高田さんは、時間をひねり出しサーキットアドバイザーの活動を続ける。
「バイクで悲しい思いをする人を無くしたい。自分のアドバイスでアクシデントを減らせるなら、どんどん声をかけます。テクニックがあれば事故を回避できる可能性は上がる。 練習会や走行会を主催してきたのはそのためです。バイクの整備も手を抜きません。故障がもとで事故を起こすことは絶対に許されない」
そして、高田さんはこう続ける。「今まで、自分のお客さんは一人もバイクの事故で亡くなっていないんです。それだけは誇りだと思いますし、これからもそうあり続けたい」