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【パドックからみたコンチネンタルサーカス】エースナンバーの重み

レース撮影歴約40年の折原弘之が、パドックで実際に見聞きした四方山話や、取材現場でしか知ることのできない裏話をご紹介。

PHOTO & TEXT/H.ORIHARA

エースナンバーの重み

鈴鹿8時間耐久には、エースナンバーというものが存在した。ヤマハの21、ホンダは11、ヨシムラの12が、誰もが知るそれだ。それぞれのエースナンバーで走ったライダー達は、誇りや喜びと共にメーカーの意地や重圧も背負って走ることになる。特にヤマハやホンダのライダー達は、「優勝が最低限」だったと語っている。それほど’80〜’90年代の鈴鹿8時間耐久は、メーカーにとって重要なレースだったのだ。

21がヤマハのエースナンバーとなったのは、ファクトリーとして鈴鹿8時耐に挑戦したことが発端だった。メインスポンサーだった資生堂が、新たに発売された男性用化粧品「TECH 21」のプロモーションに選んだのが、鈴鹿8時間耐久だったのだ。当然ゼッケンは21が選ばれ、エースナンバーとなった。

’85年のヤマハファクトリーは、ケニー・ロバーツ/平忠彦の日米スーパースターを起用し万全の体制で優勝を獲りに行った。しかしトップを走りながらラスト30分を残し、メインストレートでマシンを止めてしまったのは有名なエピソードだ。その後、平選手が8耐を制するまで、5年もかかった。

鈴鹿8耐の話になると平さんは、「本当に辛い6年間でした。資生堂さんのような大きな企業にスポンサードされているのに、勝てないわけですから。申し訳ないやら、情けないやらで。勝った時には、喜びより『これで終われる』という感情の方が大きかったですね。鈴鹿8時間は辛い思い出の方が多いです」とバツが悪そうな表情になる。

それ以降、21は鈴鹿8耐だけでなく、ヤマハファクトリーチーム全体のエースナンバーとなった。余談だが、平さんが鈴鹿8耐で勝つまでの6年間は、勝てないエースナンバーと言われ、全日本でも誰も21を付けたがらなかったという。

ホンダにとってのエースナンバーは11。このゼッケンナンバーは、ホンダの1への「こだわり」の証と聞いている。ゼッケン1は前年のチャンピオンが付けるため使用不可だ。そこで単純に1を並べた11にしたとのこと。発端こそ単純なものだが、そのゼッケンを背負ったライダーのプレッシャーはヤマハファクトリー以上だったようにも思える。

と言うのも’90年代中盤、世界グランプリにチャレンジしていた伊藤真一、宇川徹、岡田忠之の3選手は、レースが終わるとサーキットから空港にヘリで移動。日本へ帰り、火曜から2日間、鈴鹿で8耐マシンをテスト。木曜日にヨーロッパに戻りGPを戦っていた。

当時岡田選手は、「ホンダでは、鈴鹿8耐に出るライダーはグランプリよりそっちを優先してましたね。だから8耐が終わるまでは、毎週テストしてました。僕ら8耐エントリー組は、8耐が終わってからがグランプリ本番って感じでしたね」と言っていた。この言葉ひとつとっても、ホンダの鈴鹿8耐に対する本気度の高さがうかがえる。

現在もエースナンバーを付けているのは、EWCに全戦エントリーしているヨシムラくらいだろうか。そのヨシムラで’85年に初出走したケヴィン・シュワンツ選手は以前「8耐には2度と出たくないよ。僕はスプーンで転倒し、そこからマシンを押してピットまで戻ったんだよ。あの真夏の鈴鹿で。それこそ地獄だったよ」と語った。

だが、勝つことが目標のチームにおいて転倒は致命的だ。その場でリタイヤという選択もあったのではと問うと、「当時の僕はポップに見つけてもらった大きな恩があったしね。でもそんなことより、なんとかマシンをピットに戻して、再び走らなければ。そういう思いしかなかったかな。勝てるはずもないのに、そうしなければいけないと思っていたことは今でもハッキリ覚えているよ」と語ってくれた。

EWCのシリーズの中で、鈴鹿8耐だけは特別だ。過去に多くのグランプリやスーパーバイクのチャンピオンが出場している。岡田選手は「8耐は、スプリントレースが8スティント続くレースなんです。こんな耐久レースは他にないんですよ。だからピットクルーも含め、関わったすべての人にプレッシャーがかかるんですよ」と言っていた。

エースナンバーを付けて鈴鹿8耐を走るライダーは、メーカーやチームの思いも乗せて走っている。だから重いし誇らしいのだ。この伝統はいつまでも残っていて欲しいし、エースナンバーをつけたチームは誇りを持って優勝を目指して欲しい。

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