フォトグラファー折原が見た「青木宣篤が走った30cmイン側のライン」
フォトグラファー折原弘之が振り返る『パドックから見たコンチネンタルサーカス』 ’81年から国内外のレースを撮影し続けるフォトグラファー折原弘之がサーキットのパドックで実際に拾い集めたインサイドストーリーをご紹介。今回は1998年からスズキワークスで世界GPを戦ったサムライ青木宣篤選手から聞いた、トップライダーの“凄さ”の秘密をお届けする。 折原弘之 [caption id="attachment_643871" align="alignnone" width="900"] 1963年生まれ。’83 年に渡米して海外での撮影を開始。以来国内外のレースを撮影。MotoGPやF1、スーパーGTなど幅広い現場で活躍する[/caption] 97シーズンをミック・ドゥーハン、岡田忠之についでランキング3位で終えた青木宣篤選手はスズキに移籍していた。信じられないことに全日本時代から通して、初めてのワークスチーム入りだ。逆に言えば、プライベーターが最高峰クラスでランキング3位になったのだ。今では考えられない事だが、当時でも大きな話題となっており、大きな期待が寄せられていた。 迎えた98シーズンは日本で開幕し、マレーシアを経てヨーロッパラウンドに突入していった。日本GPを6位、マレーシアGPはリタイア、スペインGPを8位で終えた青木選手。まずまずのリザルトとはいえ、ワークスライダーとしては不本意な成績だっただろう。そして迎えたイタリアGP。この頃イタリアでは年に2回GPが開催されていて、ムジェロとイモラの両サーキットを使用していた。この年の4戦目が行われたのは、ムジェロサーキット。コの字型の高速左コーナー、通称〝アラビアータ?が名物の超高速サーキットだ。日本にはこのような高速サーキットが存在しないため、日本人ライダーはこういうサーキットで成績を残すのが難しいと言われている通り青木選手も苦戦していた。 金曜日のフリープラクティスを終えた青木選手は、珍しくデータとにらめっこし、スクーターでコースの下見までしている。下見から帰った青木選手に「ノブちゃん、随分と悩んでるじゃん」と軽口を叩いてみると、「今は、オリさんの相手してる時間ないわ」と言い残してモーターホームに消えて行った。確かに金曜の順位は、ワークスライダーとしては悪かったと記憶している。しかし今までも成績が振るわないことはあっても、そこまで追い込むタイプではなかった。この変化もワークス入りして、プレッシャーや責任感が生まれ始めたのだろうと微笑ましく見ていた。