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幻のMotoGPプロジェクト【BMWの3気筒がサーキットに音を響かせた日】

幻のMotoGPプロジェクト【BMWの3気筒が サーキットに音を響かせた日】

“M”パッケージを登場させるなど、S1000RRの突出ぶりが注目されるBMW。 だが、その裏にはMotoGPへのチャレンジが隠されていた。これまで外部に出ることが無かった、 BMWがレーシングエンジンを開発するに至ったヒストリーとは。

BMWは悩んでいた。四輪の世界ではGT選手権を制し、F1でも存在感を際立たせるポジションを得たが、二輪では古臭い空冷の水平対向エンジンだけがアイコンだったからだ。

ビジネスとして成功していないわけではないが、BMWというブランドを四輪同様に、進歩的で最先端の技術を持ち、さらに、個性的なプレミアムブランドとして育てたい。

とはいえ、スポーツバイクを手掛けるには経験も、知識も全く足りていないのも確かだった。

2000年3月、BMWグループの開発と購買の全責任を引き受けることになったブルクハルト・ゲッシェル博士は、これを具体的に進めなければならない立場となっていた。

コンセプトだけでは動けない。市場調査を踏まえ、未来のための開発を行わなければならなかった。

ともにフォーミュラカーのレースエンジン開発を行ってきたパートナーであり社内でも多くの尊敬を得られていたポール・ロシェを引き込み、スポーツバイク向けの新技術の開発に向け、チームを組み立てることにしたのである。

白羽の矢がたてられたのは、イタリア・モデナを本拠地とするエンジニアリング会社、オーラル・エンジニアリングだった。

オーラルは、1995年にフェラーリで長年フォーミュラエンジニアリングのトップを務めてきたマウロ・フォルギエリが、ランボルギーニ・フォーミュラやアルファロメオなどで辣腕をふるっていたフランコ・アントニアッツィとともに創業した、技術とノウハウ、施策を武器にするレーシングエンジニアリング会社だ。

彼らの豊富な経験はフォーミュラカーの世界ではよく知られ、彼らへの依頼が途絶えることはなかった。アントニアッツィはカジバGPやジレラ、アプリリアといった2ストロークエンジンでの二輪のレース経験も持っていた。

しかしオーラルには、会社としてスポーツバイクのエンジンを開発した経験はなかった。

アントニアッツィは、「逆にバイクの世界にはないたくさんの最先端技術、例えばニューマチックバルブやセミオートマチックトランスミッション、多くの電子制御機構などの豊富な知識を我々は持っている。こうした最新の技術が、経験不足を補うはずだ」と確信していたという。

こうして2000年10月5日、オーラルはスポーツバイク用の新型エンジンの設計に着手した。そのタイミングで念頭にあったのは、MotoGP用の990㏄エンジン。

最先端の技術をふんだんに盛り込むことが許され、そのコストに意味を持たせることができるプロジェクトとして、トップカテゴリーでのレースが選ばれたというわけだ。

しかし、設計された3気筒エンジンは、極めてコンパクトながら、バイクが必要としている条件を満たしているとはいいがたいものだった。

「抜群のアクセラレーションによるマシンコントロール性を重視した、きわめて軽いクランクと、それを手なずけるための豊かな電子制御。そう信じて突き進んだものの、当時の技術では正しいパラメーターを得ることができなかった。

GP引退後もBMWのボクサー・カップを走っていたワールドチャンピオン、ルカ・カダローラをテストライダーにしてマシンを走らせたものの、クランクシャフトが発生させる振動があまりに大きく、マシンを満足に走らせるどころか、電子機器にも大きな影響を与えることになってしまった」と、アントニアッツィは語っている。

開発着手からわずか1年後の2001年の12月が、プロジェクト最初のテストだった。フランスはミラマスで開催され、大きな課題を持ち帰ることになった。

テストはその後も繰り返し行われ、2005年までの間に延べ20人を超えるトップクラスのエンジニアが参画して、マシンテストが推し進められた。

アルファロメオやランボルギーニでF1のエンジニアとして活躍した後、オーラル・エンジニアリングの立ち上げに加わる。それ以前はカジバや、ジレラ、アプリリアのマシン開発をするなど、二輪の経験も豊富に持つ
写真右。プロジェクトを進めるには、BMW社内で絶大な支持を集めるロッシェの協力は不可欠だった。BMW一筋のエンジニアとして知られ、ロッシェのエンジンはF2およびF1で150ものタイトルを獲得している
写真中央。オーラル・エンジニアリングの創立者であり、プロジェクトに関わる人脈のコアでもあった。長年にわたりフェラーリのテクニカルディレクターを務め、F1 の世界では知らぬ者がいないほどの実績を作り上げた
写真左。WGP250ccクラスで2度、125ccで1度のチャンピオンに輝いたイタリア人ライダー。世界GP引退後もBMWのワンメイクレースBoxer Cupに出場しており、プロジェクト最初のテストライダーに選ばれた
’78年からBMWのエンジニアとして四輪用V12エンジンや、二輪用ボクサーエンジンを担当し、’99年に完成車開発のトップに就任。’00年には購買本部長兼取締役に昇格した。’06年、60歳でBMWを引退
元GPライダー。990ccエンジンの開発を担当した。現役当時からAprilia、チームKR、イルモアで未完成のモデルの開発に携わったことが評価され、引退後もBuell、KTMなどでテストライダーを務めてきた

この3気筒エンジンは44・6×97㎜のボア×ストローク比を持つ9 90㏄にまとめられ、17000rpmで230hpを超えるパワフルさと、110Nmという豊かなトルクを13500rpmで発揮することができた。

114度という大きなバルブオーバーラップは高効率を裏付けるもので、16 ・25㎜ものストロークを誇るバルブのリフト量は革新的なニューマチックスプリングで支えられていた。これはまたレブリミットを2000rpmも引き上げる原動力となっていった。

3連のスロットルボディは54・5㎜径を誇り、2つのバランサーを前方に持つクランクシャフトは正回転。クラッチはマシンの左側に配され、ドライブチェーンは右側に取り付けられていた。

クラッチには油圧式セミオートマチックトランスミッションが備え付けられ、さらに可変式吸気ファンネルを持つこのエンジンは、下は6500rpmからピークパワーを迎える17000rpmまで、極めてフレキシブルな実用性を持ち、扱いやすさも兼ね備えていた。

一方で、これだけ先進的な技術を盛り込みながら、予算は限られており、BMWから送り込まれた管理者があらゆる費用を明確にしながら、毎月のようにレビューが行われた。

「BMWは毎月モデナにやってきて予算のレビューを行ったから、我々はその予算の範囲内で最高のマシンを作り上げるよう動くだけだった。

当初発生した予想外の振動は我々にさらなるハードワークを強いることにはなったが、それも予算の範囲内でのことだった。

6カ月ごとにプロジェクト進捗状況のレビューが行われ、次のフェーズへの前進が承認されると予算が明示された。

990㏄エンジンの開発にあたっては、全体で7つのプロジェクトフェーズが用意され、常にBMWからは5〜6名のエンジニアが派遣されてきていた。

その中には、KTMのMotoGPマシン、RC16のチーフエンジンデザイナーを務めているカート・トレイブも含まれていたよ」とアントニアッツィは回顧している。

990㏄エンジンの開発の中でも、電子制御はまさにその進化の渦中であり、プロジェクト成功のカギを握っていることは間違いなかった。

プロジェクトの進捗に合わせるように990㏄エンジンはそのパワーを増し、用意されたセミオートマチックトランスミッションが、正確無比にに動作することで、凶暴なマシンを扱いやすく調教したのだ。

「とりわけスタートでのアドバンテージは大きかった。このシステムのおかげでクラッチレバーに触れることなく正確にギアが入った。走行中にわずかにシフトレバーを操作するだけでECUが全体をマネジメントし、点火を調整し、瞬時にシフトチェンジを行うのだ。

減速時のアンチホッピングクラッチの動作さえも電子制御で行うことで、ライダーは完全にライディングだけに集中することができるようになった。電子制御の開発は、サスペンションに向かおうとする勢いだったのだ」

ところが、プロジェクトの潮目が大きく変わることが起きた。

2005年、MotoGPのレギュレーションは突如変更され、2007年からは排気量の上限が800㏄に抑えられることになってしまったのだ。プロジェクトは振り出しに戻る形で、800㏄のエンジンの設計をやり直すことになってしまった

オーラル・エンジニアリングは新たなるエンジニアとしてドゥカティとチーム・ロバーツからレーシングデザイナーを迎え入れ、800㏄プロジェクトを再び走らせ始めた。

レギュレーションを研究し、大きくぜい肉をそぎ落としてわずか53㎏の重量に抑えられた新エンジンはボア×ストロークを90×41・76㎜の3気筒、797・9㏄とし、クラッチとアウトプットシャフトが左右入れ替わる、全く異なるレイアウトに変更された。

セミオートマチックトランスミッションごと、990㏄のエンジンからキャリーオーバーされたが、エンジンはもちろん、車体のほとんどをオーラル内部で製造されたニューモデルは、フロントに53%の荷重を置く最新のディメンションを備えて、車体の重量はわずか1 40・5㎏におさえられた。

一方、990㏄エンジンの開発も並行して進められ、テストライダーには数多くのメーカーの開発を務めてきたGPライダー、ジェレミー・マクウィリアムスが起用された。ベンチテストは100時間を超え、系10基のエンジンが製造された。

しかし、サーキットで33日以上を過ごして熟成されてきたMotoGPプロジェクトは、2006年、ゲッシェル博士が60歳に達したことを機にBMWから去るとともに、後ろ盾を失うこととなってしまった。

2007年、BMWは正式にプロジェクトの打ち切りをオーラルに通告。

新規参入者を模索していたドルナ(MotoGPのオーガナイザー)が費用を支援してまで、プロジェクトを継続させようという動きもあったが、時同じくして世界を襲ったリーマンショックが、その動きさえも完全に封じることになってしまった。

今日、BMWは市販車のラインナップにスーパースポーツモデルであるS1000RRを加え、レースでもその活躍に注目を集めているが、公式には、BMWはMotoGPへの興味を一切示すことなく、S1000RRプロジェクトで市販車ベースでのアマチュアを主体としたレースを支援するにとどまっている。

S1000RRを監修したチーフエンジニア、ヨハネス・ヘオはインタビューで「我々市販車チームは、同じく未経験の中からスーパースポーツを作り上げる課題を背負わされていた。

ただ、MotoGPプロジェクトがあったおかげで、膨大な経験と学びを得られたことは間違いない。

さらに、外部エンジニアにリードを奪われる中での屈辱と、そこからの逆転のための意地と執念をも得られたのだ。

自分たちだけで作っていたら、S1000RRが出来損ないのマシンになっていたことは間違いない。

我々の執念こそが、今日の成功に結び付き、その陰には負けられない思いがあったことだけは、確かな現実なのだ」と語っている。

17000rpmで230hpを絞り出し、最大トルクは13500rpmで110Nm。実用回転数は6500rpmからと、フレキシブルな990ccエンジン
エアファンネルは油圧制御の可変式で、3連のスロットルボディ径は54.5mm。電子制御が長足の進化を遂げたタイミングでもあり、ECUが制御する箇所はクラッチ、シフト、可変吸気システム、点火、燃料系など多岐にわたる
市販車S1000RR’09年に登場したBMW初のスーパースポーツ。プロジェクトは幻となったが、その経験は市販車の中に生き続ける

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