モノを造るヒトの想い|美藤 定【BITO R&D】
「世界をこの目で見たい」という一心で海を渡った青年が、アメリカで運命的な出会いをし、長じて日本を代表するコンストラクターへと上り詰める。そんな物語の主人公のような経歴を持つのが、ビトー R&D代表の美藤 定さん。革新的なパーツと、ハイクオリティなカスタムバイクを作り出し続ける、美藤さんの横顔に迫る。
The Constructors モノ造るヒトの想い
少年時代にバイクと出会い、魅せられ、その後の人生が定められた人は多い。ビトーR&D代表の美藤定さんも、中学生でバイクを経験し夢中になり、高校3年生で日本一周ツーリングに挑戦。当時、既にマフラーを自作していたという。
「ノーマルマフラーはカッコ悪くてバイクを寝かすとすぐに擦る。パイプを曲げ、サイレンサーも造りました。性能はともかく音は良かったですね。排気音が気持ち良かった」
高校を卒業して家業を手伝っていたが、進学した友人から刺激的な都会生活の様子を聞かされ一念発起。翌年の大学合格を目指し勉強を開始するも、受験には失敗。モラトリアムな日々を送ることになる。
時は’70年代前半、ベトナム戦争の社会問題化の波を受け、国内でも学生運動の嵐が吹き荒れていた。だが、郷里の兵庫県豊岡市で暮らす美藤さんには、対岸の火事だった。
「全学連とかの学生が暴れている様子が、毎日ニュースで流れてくるわけです。学生なのに勉強もせず、何をやっているのかな? と、不思議に思っていましたね」
そうした中、アメリカの統治下にあった沖縄が、’72年に日本に返還されることになる。
「世の中がどうなっているのか知らなきゃならんと、沖縄の状況を自分の目で見てみることにしたんです」
交通手段は徒歩。ヒッチハイクにすることもあったが、基本は歩きで移動。テントを背負って、自炊の毎日。鹿児島から船を使い、沖縄に渡ってからも野宿生活を続けた。
「伊江島という米軍の基地がある島でキャンプをしていたら、ベトナム戦争に従軍していた休暇中のアメリカ兵と仲良くなって、毎日一緒に遊んでいたんです。食事に呼ばれたり、楽しかったですね。ですが、日に日に彼らは元気がなくなっていく。ベトナムに戻る前日に、泣きながらこう言われたんです。『俺たちは、やりたくもない人殺しをさせられている。もうイヤだ!お前はいいな、人殺しをしなくても生きていける』と……。それまで〝自分には何もない〞と、いうことがコンプレックスだったんです。金はない、学歴もないしスポーツが得意なわけでもない。人より秀でたものが何もないと考えていましたから。ですが、普通に生きていられる。なんて恵まれているんだと気付かされました。生きるか死ぬかの生活なんて、考えたこともありませんでしたから。自分は何も知らない、世界を見なければいけないと思いました」
24歳の時、カワサキのZ2と共にアメリカ放浪の旅に出る。そして旅の途中、部品を求めて立ち寄ったのがノースハリウッドにあったヨシムラ。現地で陣頭指揮をとっていたPOP吉村その人に「明日からウチで働け」と言われてヨシムラ入りしたのは有名なエピソードだ。当時のヨシムラは2度目のアメリカ挑戦を開始したばかり。アメリカ最大のレース、デイトナで勝つため、背水の陣を敷いて戦いに挑んでいた。ところが、レースを目前にして工場で火事が発生。POPは大火傷を負い、レース用マシンも燃えてしまう。
「レースを手伝ってくれと言われました。私はアルバイトでしかなかったんですが、人手が足りないからやるしかない。ほぼ不眠不休で、2週間ほどでバイクを組み上げて、デイトナに乗り込みました」
’77年3月のデイトナ・スーパーバイク。ヨシムラチューンのZ1は、ウエス・クーリーにより3位入賞果たす。サスペンショントラブルがなければ優勝も狙えたレースだった。
「その時に思ったんです。自分でも世界一のバイクが造れるかもしれないって。この道で頑張ってみよう、修行を積もうと決めました」
このデイトナ参戦は、美藤さんにとって、多くを得た経験となった。
「人間は横着ですから、平常時には全てのパフォーマンスを出すことはない。潜在能力を発揮するのは、追い込まれた大変な時です。デイトナ挑戦で、一度自分のポテンシャルの底を見ることができた。これは、自信に繋がりましたね。物事が普通に進んでいる時には、思い切ったトライもしにくい。極限状態でこそ、いろいろなアイデアが出てきて、いろいろな挑戦ができる。トライ&エラーを繰り返す内に、自分のスキルが上がるんです」
「無い物は造ってしまえ」〝世界初〞へのチャレンジ
ヨシムラには’79年まで在籍。その後、スズキでレーシングマシンのGS1000Rの開発に携わり、ホンダに移籍後はアメリカでフレディ・スペンサーが駆ったCB900Fレーサーの開発を担当。WGPでは、日本人初の世界チャンピオン片山敬済のメカニックを務めた。そして’89年、日本に戻り、ビトーR&Dを設立した。
「最初は町のバイク屋ですよ。その頃、WGP時代に知り合ったイタリアの友人から、レーシングメカニック養成講座での講師の依頼を受けました。年1回で期間は1週間ほど、3年くらい手伝いました。そこの生徒達から、パーツを手にいれる方法の相談を受けるようになり、『ならば自分でやるか』と、パーツの輸出を始めたんです」
マフラーは自ら製作し、ケーヒン製キャブレターの輸出業務を開始。コスワース製ピストンも手がけた。現在のパーツメーカーとしてのビトーR&Dのルーツはここにある。これまでに送り出してきた膨大な数のパーツの中でも、その名を広く知らしめたのが、世界初のバイク用チタンマフラーの市販だろう。
「ワークスチームでもスチール製の時代でしたが、四輪のF1マシンはチタンマフラーを使用していました。世の中にないもの造るのは面白いですよね。チタンマフラーの構想自体は、かなり前から温めていたものです。スズキでGS1000Rをやっている時に、ライダーから『このバイクは戦車みたいに重い』と言われたんです。当時のマフラーは鉄製。材料をチタン化するだけで劇的に軽くなる。チタンにすべきだと、チームに提案したこともありました」
同じく世界初のアイテムとして、マグネシウム鍛造ホイール〝JBマグ鍛〞も世を驚かせた。
「輸入ホイールの納期と品質に納得がいかず、自分で造ってしまえばいい……と(笑)。最初は鋳造で考えていましたが、鍛造も四輪では実用化した例があったので、チャレンジすることにしました」
開発に5年の時間を要し、開発費は莫大になったが、マグ鍛は絶賛を持って迎えられた。モトGPではスズキとカワサキ、AMAでアメリカホンダ、ヨシムラスズキ、USカワサキなどのトップチームが採用した。
パーツメーカーとして、常に時代の先端を走ってきたビトーR&D。チューナー&カスタムビルダーとしても評価が高いが、最先端をいくパーツ開発とは対照的に、’70〜’90年代に生産された旧車を手がけることが多い。これは、単純な懐古趣味によるものではない。
「技術的には、最新のバイクが優れているのは間違いありません。ですが、それがユーザーの喜びにつながっているかは別の話です。歴史を振り返ると、ルネッサンスや元禄時代のように、文化が花開くタイミングがありますが、これがバイクにとっては’70〜’90年代だと思うのです。この時代に造られたバイクは現在でも魅力的で、走らせて楽しい。実際に愛車にしたいと考えるユーザーが多く存在します。そうした素晴らしい素材に改良を加えることで、もっと楽しめるバイクになります」
冒頭のページで撮影に使用している日本家屋は、美藤さんが長年修復に取り組んでいる古民家。単純に過去に忠実な復元作業ではなく、現代の技術や機能を取り入れた美藤さんなりのアレンジが加えられた建築だ。伝統的な素材を現代の技術でアップデート。これは、美藤さんの造るカスタムバイクと同じではないか。
「美しいもの、高品質なものが人間に与える幸福は素晴らしい。そうした幸福を感じられるバイクを造っていきたい。バイクは私に幸福を感じさせてくれます。多くの人に、同じ幸福を感じて欲しいし、バイクを通じて豊かな人生を送ってもらいたい」
美藤さんの物造りはブレない、全てが繋がっている。美藤さんは、笑顔でこう結んだ。
「バイクって、素晴らしい趣味だと思うんです。バイク乗りを一生貫けたら、良い人生だと思います」
ビトーR&D TEL:0796-27-0429 http://www.jb-power.co.jp/