1. HOME
  2. COLUMN
  3. 【熱狂バイククロニクル|ドミニク・サロン】カッコよさに憧れた、ルナ・カダローラさんのフォーム

【熱狂バイククロニクル|ドミニク・サロン】カッコよさに憧れた、ルナ・カダローラさんのフォーム

世界GPロードレースはヨーロッパが発祥のスポーツです。そんなレースに僕が初めて触れたのは、’83年頃からでした。キングケニーことケニー・ロバーツさんと、ファーストフレディことフレディ・スペンサーさんのバチバチのチャンピオン争いが行われたシーズンでしたが。正直、それを詳しく知ったのは後の事でした。 

その理由は’83年当時、世界GPに関する情報が日本に入って来るまでにタイムラグがあったからでした。テレビで世界GPの全戦放送が始まるのは’89年からで、それまでは限られたメディア(本誌のようなレース系の雑誌や、テレビの15分程度のレース系番組)の情報だけでした。その内容もメインレースのGP500が中心ですし、派手な転倒シーンが多く取り上げられたりもしていましたから、正確なレースの情報は1〜2カ月遅れの輸入ビデオの到着を待つばかりでした。しかもそのビデオは1〜2万円くらいしましたから、若者では観る機会も限られていました。 

レースビデオについては、’87年から始まった鈴鹿サーキットでの日本GPがきっかけとなり、約1カ月遅れで毎戦2000円前後でコンビニや本屋さんで買えるようになりました。この頃から、やっと世界GPが身近な存在となってきましたが、やはりGP500の情報が中心でした。 

ですが、我々レースマニアは専門誌も読んでいましたので、GP250、GP125、サイドカークラスなどが存在する事も知っており、そちらの詳しい情報も知りたかったわけです。 

そんな中、’86年からGP250に、ヤマハワークスライダーの平忠彦さんがフル参戦を始めました。それと時を合わせたようにGP250も映像の情報が入り始めたのでした。実際にはそれ以前にも、片山敬済さん、根本健さん、福田照男さんなど、世界GPにフル参戦していた日本人はいたのですが、日本で世界GPの人気が本格化したのは、平さんのフル参戦がきっかけでした。 

段々と世界GPの全容が見えてくると「GP250の本場ヨーロッパの有力ライダーって誰なの?」となっていくわけですが、僕が最初に気になったのが、イタリア人ライダーのルカ・カダローラさんでした。 

何らかの理由で集中力が上がらない場合は上体を起こし、まるでツーリングをしているようなフォームで走る場合もありました
何らかの理由で集中力が上がらない場合は上体を起こし、まるでツーリングをしているようなフォームで走る場合もありました

カダローラさんを知ったのは、マルボロカラーにアライ製ヘルメットを被っていたからです。当時、色々なタバコメーカーが盛んにレースをスポンサードしていましたが、中でもマルボロはメジャーなスポンサーでした。その頃から世界的に嫌煙運動が始まっており、テレビや雑誌などに広告を打つのが難しくなってきた時期でもありましたから、タバコメーカーはその予算を二輪・四輪を問わず、レース界に注いでいました。マルボロの他にもHBやゴロワーズらもあり、少し後になるとロスマンズがホンダのスポンサードを始めています。 

無理な感じがなく滑らかに走るカダローラさんは、マルボロカラーと相まって非常にカッコ良く見えていました。滑らかと表現しましたが、ずば抜けて速いコーナリングスピードを観ると、鋭さをも兼ね備えていて、怖いと感じる時もあるくらいでした。 

オーソドックスなフォームは実に無理のない、自然で綺麗なものでした
オーソドックスなフォームは実に無理のない、自然で綺麗なものでした

カダローラさんは’84年からGP125にフル参戦を初めています。GP125クラスでは3シーズンを走り、’86年にはガレリのマシンで世界チャンピオンになっています。’87年からはGP250にステップアップし、’90年まではマルボロカラーのYZR250で走りました。しかし、この間はチャンピオンに手が届かずにいました。 

そして、なんと’91年からはマルボロ・ヤマハの最大のライバルであるロスマンズ・ホンダに移籍し、NSR250を駆る事になります。そのまま’91〜’92年に、見事2年連続の世界チャンピオンに輝きました! 

ロスマンズ・ホンダ時代の黄色ゼッケンのカダローラさんが、あまりにもカッコ良く見えて憧れました。確かこの頃から、それまでGP125が黒色、GP250が緑、GP500は黄色と決まっていたゼッケンの背景色が自由になったためカダローラさんの#1が黄色地に変わり、以前のNSR500のように見えてカッコ良く思えたのです! 

ロスマンズ・ホンダでは2シーズンを走り、2年連続で世界チャンピオンを獲得しました
ロスマンズ・ホンダでは2シーズンを走り、2年連続で世界チャンピオンを獲得しました

2年連続のシリーズチャンピオンを手土産に、カダローラさんは’93年からGP500にステップアップしていきました。’93年からは再びマルボロ・ヤマハに戻りYZR500を駆りました。カダローラさんのGP500のキャリアは長く、8シーズンを闘いましたが、最高峰クラスでのチャンピオンには届きませんでした。’00年を最後に世界GPからは離れてしまっています。 

カダローラさんは、当時小排気量クラスからのステップアップしたヨーロピアンライダーの中で、1番成功したライダーではないかなと思ったりもします(’99年はスペイン人のアレックス・クリビーレさんが、GP500でチャンピオンになっているのですが)。 

では、カダローラさんのライディングフォームを考察してみます。小・中排気量クラスからステップアップをしてきたライダーに特徴的なフォームとして、「身体を小さくして伏せる」というものがあります。カダローラさんもまさにこの典型的なライダーでした。身体を小さく折り畳み低く伏せますから、少しアゴが上がったフォームになります。このアゴが上がった感じがコーナリングフォームにも出ていて、それがカダローラさんのライディングの特徴になっていました。 

面白いのが、カダローラさんはそのレースでマシンのセティングでが気に入らなかったり、何かしらの不満を持った場面では、明らかに本気で走らない事がありました。その時のカダローラさんはカウルの中に伏せなくなるので、いつもより上体が高く(ヘルメットの位置が高くなり)、アゴが上がり気味になるので、まるでツーリングしているように見えました。

GP125、GP250で3度のチャンピオンですから、コーナリングはどのライダーよりも鋭く、スピードが乗ったものでした。そういう意味でも、コーナリングマシンであったヤマハのマシンとの相性も良かったのでしょう。実にスムーズにバイクを速く走らせる典型のような走りでした。 

身体は外ヒザがナチュナルな開き方で、腰を引き気味の後ろ乗りで、セルフセテアを積極的に使う感じでマシンを操っていました。リアの荷重を重視しているようでしたが、コーナー立ち上がりで頑張って強い加速をすると、リアが一気に滑る危ないシーンも見せていました。そんな意味でもパワースライドコントロールが重要となるGP500との相性は、それほどでもなかった印象でした。 

外足の使い方は、ステップに土踏まずを載せて、つま先は外側にピッコン! と出していました。そういう意味ではシュワンツさんやレイニーさんらと似た外足の使い方でした。加えて、アウト側に滑り出すマシンを抑え込む乗り方ですから辻褄が合わず、面白さも感じています。性格の違うYZRとNSRを見事に乗りこなしていますから、その辺りに辻褄が合わない根拠が隠れているのかも知れませんね。 

僕の中では、ヨーロピアンライダーの中でもカッコ良い乗り方のライダーで、憧れました。当時の愛車だったCBR400F初期型で、近所の山(といっても丘に近い、車通りの少ないワインディングでしたが)を、真似して走っていた事を思い出します。こんな風に僕は、色々なライダーのフォームを真似して乗っていました!

関連記事